前回の出張のときにもブログに書いたが、今回もアンパンマン列車に乗った。JR松山駅から宇和島駅までを走る、前回と同じ特急宇和海7号での旅であった。これから控えている仕事を考えると、何となく気分がすっきりとしなかったが、またもやアンパンマンに励まされて、無事に終えることができた。
みなさん、こんにちは。ぼく、アンパンマンだよ。
今日は、アンパンマン列車にご乗車いただきましてありがとうございました。また今度もアンパンマン列車に乗りに来てね。それじゃ、気を付けてね。いってらっしゃい。
と出発時に励まされ、

みなさん、こんにちは。ぼく、アンパンマンだよ。
今日は、アンパンマン列車にご乗車いただきましてありがとうございます。素敵な列車の旅をお楽しみください。
と到着時にも励まされた。
今日は、宇和島出張であった。
松山行きの飛行機の中で、新聞に目を通していると、興味深い記事を発見した。
NHKが4月から5月にかけて放映したドラマの中で、行政書士役が離婚問題についてアドバイスするシーンがあり、そのシーンが弁護士法に違反するとして、大阪弁護士会がNHKに対して抗議書を送ったということであった。
弁護士法では、弁護士又は弁護士法人でない者が、報酬を得る目的で訴訟事件やその他一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務を取り扱うこと、又はこれらの周旋をすることを業とすることができないと規定している(弁護士法第72条)。すなわち、弁護士資格のないものが、紛争性のある事案などに関し、その法律事務を行ってはならないとされているのである。
最近でこそ、いままで弁護士しか取り扱えなかった一定の事件に関し、その門戸が司法書士に一部開かれたものの、まだまだ、その門戸は閉ざされたままなのが現状である。
行政書士の職務権限は、官公署に提出する書類などの作成業務で、その範囲で依頼人の相談に応じることができるとされており、上記のドラマの中での行政書士の行為は、行政書士の職務を逸脱して、弁護士法違反に当たるという指摘なのである。
今日は、歓送迎会で遅くなった。まもなく、日付が変わろうとしているので、取り急ぎ、携帯から本日のブログを更新することにした。宇和島出張のため、明朝、早めの便に搭乗しなければならない。帰宅すれば、きっと、直ぐさま布団の中に入り、お休みなさいを言うであろう。
何の脈絡もない、取留めのない話でご免なさい。そして、お休みなさい。
妻の上司から暑中見舞いを頂戴した。
私たちの結婚式にも来てくださったし、結婚した当初、私たち夫婦を白浜の別荘に招いてくださったこともあり、それ以来、毎年、私宛にも年賀状と暑中見舞いが届くようになった。
この方の書状は、単なる時候の挨拶だけではなく、いつも、そのとき感銘を受けた言葉から、そのとき心に感ずるところを、400字程度に纏めて認め(したため)られている。或る時は、キリスト教や仏教の教えから、また或る時は、武士道の精神など、テーマはそのときどきに様々である。
今回の暑中見舞いは、真木和泉守の言葉が紹介されていた。
真木和泉守は幕末に活躍した勤王の志士である。
真木和泉守の言葉に、「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず(中略)。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば武骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり。」とあるが、戦後の日本を駄目にしたのは、不正、不実を厭い、義を最も大切な徳目とした「武士道」が捨てられた結果であるという意味のことが書かれてあった。
戦後民主主義の名のもとで、戦争責任を自ら追及することなく、公共につくす精神を失い、個人主義(利己主義)に走っている。昔よき時代の日本の伝統文化が崩壊したのは、まさに、戦後の日本国憲法はもとより、教育基本法による戦後の教育理念によって、自由と権利は享受するが責任を全うせず、義務を果たそうとしない人が増えたからではないかとその書状を読んで感じ取った。
懐かしの復刻版がマーケットのお菓子売場に並んでいた。某お菓子メーカーのスナック菓子のことである。40年前に販売された当時、「カレーがけ」と「チーズあじ」の二種類のみで、「うす味」は未だ販売されていなかった(という記憶である)。
調べてみると、「チーズあじ」が売り出されたのが1968年で、同じ年に「チキンスープ」なるものも売られていた。そして、翌69年に「カレーがけ」が登場し、その後、「チーズあじ」と「カレーがけ」が定番となり、さらに、71年に「うす味」が加わったようである。
その後今日に至るまで、地域限定・季節限定ものを含め様々な種類の味が売り出されている。しかし、当時から人気があった「カレーがけ」が知らぬ間に店頭から消えてしまっていたのである。なぜ、「カレーがけ」が製造されなくなったのかは不明である。
『あわれみの器として召されている』
-キリストの福音に生きる(33)-
(ローマ書9章19-29節)
骨ばかりで、早く肉の部分に行ってほしいと思っている方がおられるかも知れない。
私(説教者)自身、どのように料理をしたらよいか考え倦んでいる。しかし、まさに中心となるべき骨格部分なので、じっくりと味わいたいとも思う。
パウロは、伝道旅行に出掛けるとまずは、そこにあるユダヤ人の集まる会堂に立ち寄り、ユダヤ人に福音を語っていた。しかし、多くのユダヤ人が福音を拒み、一方で、多くの異邦人たちがイエス・キリストを受け入れたのである。
「私たちを神の愛から引き離すものは何もない。」
ユダヤ人が福音を拒絶する現実に直面して、パウロは甚だしく悲しみ痛んだ。
神の愛がこんなにも注がれているのにである。
ローマ書の9章において、このような現実から、パウロは様々な問答を想定し、神のユダヤ人に対する選びや召しについて説明しようとしている。
多くのユダヤ人が福音を拒み続けるのは、神の約束が反故にされたからであろうか。
神の契約が無効となり、計画は破棄されたからであろうか。あるいは、神が真実のお方とするならば、ある者は救われ、ある者は救われないというのは、不公平ではないか。否、そうではない。神の約束や契約は変わらない。神は、自らの主権で、あわれみをもって、私たちを導いておられるのである。さらに、問答は続く。それでは、神の御心のままに人が救われ、救われないということであれば、人が救われる、救われないは、神の責任であって、人の責任ではないのではないか。なぜ、人が責められなければならないのかという議論である。
神のことばをそのまま受け入れることは大切なことであるが、ときに、人間の拙い頭を混乱させる。この問題は、パウロを混乱させたのかも知れない。パウロは、その質問に応えることをしないで、その質問の本質に光を当てた。それでは、パウロは、この理解し難い問題をどのように説明しようとしたのか。ユダヤ人を選ばれた神の愛は変わることはなく、そして私たちに対しても同様であるということをである。
1.神が私たちを創造し、私たちを選んでおられる
所詮(とまでは言わないまでも)、あなたがたは人間ではないかとパウロは言う。
パウロは、陶器師と粘土の例えから、神が創造主であることを語る。この例えは、2つのことを指摘している。ひとつは、神は土塊からどんなものでも造ることができるということである。もうひとつは、土塊からは何も始まらないということである。
神が土塊を練り、固めることから始まるのであり、神が土塊を手に取るからこそ事が始まる。すなわち、神の選びがあるからこそ、救われる者が存在するのである。
キリスト教信仰において、最も大切なことは、神が選び、創造されたということであり、主権者なる神が私たちの人生を始められたということである。
付言しておくが、この例えは、神がことを起こされたということを説明するためのものであり、気に入らなければ陶器のように壊したり、棄ててしまうということではない。神が私たちを無機質なものとして造られたのではなく、人格的な存在として造られたことは勿論のことである。
それでは、神がいるのなら、なぜこの世は不安だらけで、不公平が罷り通るか。神にすべての説明責任を求めることは愚かなことである。また、すべて自分の行いで解決しようとすることも本末転倒である。全能なる神を認め、心に留め、信仰をもって神に応答しなければならないのである。
2.神は、怒りを受けるべき私たちを、あわれみをうける器としようとしておられる
怒りの器というのは、怒る器という意味ではなく、怒りを受けるべき器のことを言い、あわれみの器とは、あわれみをうけるべき器のことを言う。
最初から、神は滅ぼされるべき器を定めているわけではない。頑なな、怒りをうけるべき器だったにもかかわらず、神は豊かな寛容をもって、忍耐強く、あわれみを与えようとしておられ、神のあわれみを受けるべき器として召してくださっているのである。私たちはその栄光を知らなければならないのであり、その栄光を知ることは幸いなのである。
私たちは神の召しによって、今日の自分があるのであり、自分の弱さも神の御手の中にある。決して自分の力で成功して満足する人生ではないのである。
3.神は、イスラエルからも異邦人からも、「あわれみの器」を召しておられる
ユダヤ人が福音を拒絶したから、異邦人にその救いが置き換わったわけではない。
ユダヤ人の中でもイエスを拒絶する者もおれば、受け入れる者もいる。異邦人の中でも受け入れる者とそうでない者がいる。神の選びはユダヤ人だけに限定されたものではなく、異邦人にも神のあわれみは注がれたのである。選ばれた民であるからと言って誰でもが救われるのではない。神は、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、最後まで主に信頼する者にあわれみを注がれるのである。
私たちは、神の計画の中にあって、恵の中に入れられている。神の召しの中に生かされていることを知らなければならない。人生に本当の平安と祝福を与えられているのである。
すべての主権と権威は神が有しておられるのであり、ユダヤ人だけでなく、異邦人もあわれみの器として召されているのである。それは、私たちが神のみくにの証人となるためである。
弟の転勤で家族が名古屋から芦屋に引っ越してきた。
転勤の辞令は一月前にすでに出ていたため、弟が先に単身で赴任していたが、家族らは、子どもの学校のこともあり、終業式をまって一ヶ月遅れで今日やって来た。
一ヶ月とはいえ、離れ離れはさぞかし、寂しかったことであろう。
今日は、名古屋から引越し車が到着する予定だったので、私の妻と妹は、荷物の受け入れなどのために、朝から手伝いをしに弟の新宅に行ってきた。私は、あいにく朝から仕事だったので、夕方頃に弟らと合流した。
妹の幼馴染みのRちゃんもお手伝いに来てくれていた。Rちゃんとも久し振りの再会である。
私が行ったときには、梱包の縄は解かれ、おおかたの荷物も収めるべきところに収められていた。たくさんの種類の食器類も水屋に綺麗に並べられ、まるで魔法にかけられたように、美しく、見事に収納されていた。
残念ながら、私のすることはほとんど無く、段ボールを潰し、ごみを集めることくらいだった。
次に、小物類を収納するための収納用品をホームセンターに買いに行くことになり随伴した。建物の規格に合わせて、便利なグッズがさまざまあるのに驚いた。家具や水屋の空いた隙間の寸法をあらかじめ測っていき、これらの収納用品を組み合わせて、そのスペースにぴったりと納まるようにするのである。これもパズルのように隙間なく合わさり見事であった。
改装工事が終わったばかりで、言わば新築同様の内装に私も触発され、我が家のためにもお掃除グッズをいくつか購入した。
結婚して16年、我が家もずいぶん荷物が増え、狭い部屋に、さらに所狭しと家具や食器棚からものが溢れかえっている。思い切って棄てるか、広いところに引っ越さなければ、掃除機もかけることができないほどの状態に陥っている。弟や妹が次々と新しい家を建て、マンションを購入するのを見ていると、そのうち、妻が広い家に引っ越そうと言い出すに違いない。恐ろしや…
ある講演会の資料に、コンドリーザ・ライスの語録が紹介されていた。
あの有名な、ブッシュ前大統領のもとで大統領補佐官や国務長官を歴任した女性である。
これからの人生のスケジュールは?という問いに対し、ライスは次のように応えた。
「環境や試練は選べないが、それへの対処法は選べる。すべてがうまく行っている時は、物質的な見せかけの喜びや満足に陥り、自分に対するプライドや信念に満足してしまいがちであるが、苦難を通して、罪の贖いや自己認識を見出すのである。」
-プライドと情熱 ライス国務長官物語 2007-
生まれた環境やその環境での苦難は、自分の意思で選択したわけではなく、彼女が負わされた試練だったかも知れない。人種差別もそのひとつだったであろう。
一方で、彼女には天賦の才能が与えられていた。ピアノの腕前はプロ級であり、15歳で大学に入学し、19歳で政治修士号を、27歳で政治博士号を取得するとともに、スタンフォード大学の助教授に就任するなど、彼女の経歴からみて、誰もが彼女の才を認めるところである。
アメリカの新保守主義者、ネオコンとまで批判する人もいるが、軍事的な勢力均衡を破る勢力には当然に武力行使も辞さない構えであり、攻撃的なところをみせる強い女性である。
しかし、そのような才能や物質的な喜びや満足は、彼女にとって外面的なみせかけの満足に過ぎない。彼女は、自らの苦難の体験をとおして、罪の贖いの中におかれている自分を発見し、自分のあり方を見出しているのである。
そんな記事をみて、パウロの言葉を思い出した。
「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ローマ書 / 5章 4-5節)
キリスト者は、神の愛の故に、苦難をも喜ぶことができるのであり、打ち勝つ精神が培われる。そして、果敢で不屈の精神が生みだされた結果、希望が生まれるのであり、この希望は失望に終わることはない。
ビルの壁に、「AEDを知っていますか?」という貼り紙がなされていた。
「AED」の存在自体は知っていたが、それがどこに設置されているのか場所までは知らなかった。おそらく、ビルのどこかに設置されていて、その存在を周知徹底するための啓蒙活動か何かであろう。
AEDとは、Automated External Defibrillatorの略で、自動体外式除細動器と訳すそうである。すなわち、心臓の停止した人に電気ショックを与えて救命するための機器のことを言うそうである。
スポーツ中などに、人が倒れて意識を失ったときに、このAEDを使って助かったという記事を何度か見たことがある。某テレビタレントが東京マラソンで心停止状態に陥り、AEDで蘇生したというニュースも耳に新しい。そうゆうこともあってか、最近では、自治体、医療機関、民間施設で、AEDは普及しているようである。
46年ぶりの皆既日食
太陽が月に覆われ、太陽の光が月に遮られる。まるでダイヤモンドの指輪のように見える、世紀の天体ショーとの前評判。大阪でも見られると心待ちにしていたが、あいにく朝からどんよりとした空模様。この時間帯、ちょうど外出する用もなく、所内でデスクワークをこなしていたため、いずれにせよ見ることはできなかった。
日本でプロテスタントキリスト教伝道が開始されたのは安政6年、1859年のことである。
今年でちょうど150周年を迎えることになる。カトリック教会の伝道活動は、すでにこの以前から開始されており、もちろん見逃すことはできない。
日本のクリスチャン人口は1%くらいと言われており、この150年間の成果であることは間違いないが、ここのところ何十年も約1%と言われ続けているような気がする。
隣国の韓国では、プロテスタントキリスト教の受け入れが始まったのが1880年以降と言われているから、日本よりも遅れること20年ほどになるが、韓国の教勢は人口の30%を越すとも言われている。そして、教勢はさらに伸び続けているとのこと。
数の問題ではないのかも知れないが、日本と韓国との間にこれほどの差が生じているのは、いったい何が原因なのか。
昨日の主日礼拝でのメッセージでは、箴言30章24-26節から、小さなものでも神から知恵が与えられており、私たちもこれに習うべきであると学んだ。
ここでは、①蟻(あり)、②岩狸(いわだぬき)、③蝗(いなご)、④守宮(やもり)が登場する。
今朝のメッセージでは、大(おお)先生が熱弁を振るうがあまり、時間切れとなり、最後の守宮(やもり)については割愛された。ちょっと残念であり、その続きが非常に気になった。
是非ともその続きを拝聴したいと思った。
休みの今日、一日ぼうっとしながらも、昨日の「守宮の知恵」が気になり、ずっと考えていた。
「守宮」を広辞苑で引くと
トカゲ目トカゲ亜目の爬虫類の一群の総称。
多くは夜行性・食虫性で、鳴くものもある。
-中略-
指趾の下面は吸盤様の構造で、これで壁・天井などにつかまる。
となっていた。
そう言えば、避暑に訪れた田舎の民宿で、天井を這う守宮を、蚊帳を吊した寝床の合間から目撃したことがあった。最近でこそ見かけなくなったが、私たちの子どもの頃は、田舎に行かなくとも、どこの家でも日常的によく見かけたものだ。
箴言が著された時代にも、守宮は、大胆にソロモンの宮殿を闊歩していたのかも知れない。
読んで字の如く、まさに宮を守る動物、それが守宮なのであろうか。
神聖なる神の殿舎に臆することなく入り込み、まるで神に近づこうとしている様を想像する。
箴言が語る守宮の知恵とは、大胆に神に近づくということなのだろうか…
『神の知恵に生きる賢い人』
(箴言30章24-26節)
箴言は、その多くがダビデの子ソロモンの著書であると言われ、その他、語り継がれてきた知恵ある先人のことわざや格言を収録しているものと言われている。
箴言の由来は、中国医学にみられる物理療法で用いる鍼灸の鍼(はり)を意味する。今でこそ鍼は、金や銀、鉄などで造られているが、そもそも竹で造られていたのかも知れない。鍼をリンパや神経などの経絡の要所に打ち込むと、その治療の効果があらわれるように、神の知恵である「箴言」の言葉が、人間の心の鬱血を取り除き、心の治療をするというわけである。今朝は、箴言から神の知恵を学ぶ。
ここでは、4種の小動物が登場する。
①蟻(あり)、②岩狸(いわだぬき)、③蝗(いなご)、④守宮(やもり)である。
①蟻(あり)について
蟻は力のない昆虫の一種であるが、夏のうちに食糧を確保する(箴言30:25)。
公園のベンチに腰を掛けて足元を見つめていると、小さな蟻が一生懸命動いている。いったい何処に行くのだろうと眺めていると、あまりにもせかせかと働き動く様に、とうとうその動きに着いていくことができなくなった。
箴言6章6節に、「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。」とある。箴言は、人間は怠け者であってはならず、蟻のように勤勉であれという。ここでいう勤勉とは、単なる勤勉ではない。遠大な神の真理を教えようとしているのである。
聖書が蟻をとおして教えようとしていることは、蟻が小さなからだで来るべき冬に備えて食糧を確保しているように、今という時をただ漫然と過ごすのではなく、来るべき主のときに備えて準備せよということである。
人間だけが、今の時代と来るべき罪に至るべき時代を体験する。今は恵のとき、だからこそ、空しく過ごしてはならない。そのときの為の備えをしなければならないのである。
「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない。」(Ⅰテモテ / 6章 7節)
単純な言葉であるが、意味深である。不確かな富に望みを置くのではなく、すべてのものを豊かに与えてくださる神に望みを置き、真の命を得るために、未来に備えて、堅固な基礎を築くのである。
②岩狸(いわだぬき)について
岩狸は、アフリカから中近東に分布するヤマネズミのような小動物である。自然界では弱肉強食の世界であり、小さな動物たちが、激しい自然界を生き抜いている。
創造主なる神は、弱いものは弱いなりに、生きる知恵を与えている。岩狸は、小心で断崖の岩間に群れをつくって住んでいる。岩狸は、弱小動物であるが故に、安全な場所を知っているのであり、安全な場所を選らんで巣を造り、家族らとともに群居しているのである。私たちも、岩狸に与えられている知恵を学ばなければならない。何処が安全であるかを。
デカルトに始まる近代合理主義は、理性至上主義とでも言おうか、私たちは理性こそが安らかな場所と信じて生きている。人間の理性こそが絶対で、超自然的な神の存在を否定して生きているである。なんと傲慢なことであろうか。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(Ⅰペテロ / 5章 8-9節 )
悪魔は、美辞麗句をつらね惑わし、私たちを主のもとから誘い出そうとしている。騙し、欺きの達人である。キリストを信じる者たちをなんとかしてイエス・キリストのもとから離れさせようとしているのである。私たちは、精神や肉体を鍛錬して、悪魔との闘いに勝つことが自分の身を守ることではない。イエス・キリストの内にいることが安全であるということを知らなければならない。
③蝗(いなご)について
蝗は、隊を組んで中距離を移動する。集団を組織して共同で行動する習性があるのである。蝗は、一匹一匹は小さくて力がない。箴言は、蝗の習性を学ぶべきと語っている。
~我思う、ゆえに我あり。~自分を含めた世界の一切を疑い、世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑う意識が確実ならば、そのように意識している我の存在だけは疑い得ない。-デカルトの思想である。人と人との交わりを拒絶する個人主義であり、エゴイズムである。すべてこの世に存在するものは、持ちつ持たれつ、相互に助けあって生きるように造られているはずである。その素晴らしい秩序を壊したのは人間であり、生態系や環境を破壊したのも人間である。エゴイズムは罪の温床である。
神は、教会というコミュニティたる共同体をつくり、私たちをその一員として加えてくださった。 どんな理由があっても、躓きがあっても、孤立することは破滅である。キリストのからだである教会に属することが私たちが神に与えられた祝福であり、神の家族、キリストの花嫁である教会に私たちは加えられている。
蝗が一致して動くがごとく、キリストのからだである教会が一致し、クリスチャンも互いに一致するように求められているのである。一致して行動する蝗の知恵を学ぶべきなのである。
④守宮(やもり)
は時間切れでした。
公訴時効制度とは、法律の定める一定期間が経過することによって、公訴権が消滅す制度のことであるが、近頃、被害者の遺族を中心として、殺人等の凶悪・重大な犯罪について公訴時効制度の見直しを求める声が高まっている。
法務省は、公訴時効という制度が置かれている趣旨を、一般に次のとおりと示している。
① 時の経過とともに、証拠が散逸し、起訴して正しい裁判を行うことが困難になる。
② 時の経過とともに、被害者を含め社会一般の処罰感情等が希薄化する。
③ 犯罪後、犯人が処罰されることなく日時が経過した場合には、そのような事実上の状態が継続していることを尊重すべきである。
以上の概要がその根拠と解されている。
近時、凶悪・重大犯罪に関する公訴時効のあり方を見直す議論がなされており、法務省は、主要な論点として以下のものを挙げている。
①公訴時効制度の改正の必要性
公訴時効の見直しを求める被害者等の声や国会の場における指摘がある。
国民一般の正義観念を踏まえつつ、公訴時効制度に関連する事件の実情を考慮して検討する必要がある。
②証拠の散逸,被告人の防御との関係
重大犯罪について公訴時効を廃止している外国法制もあること等を踏まえ、この趣旨との関係について検討する必要がある。
③ 被告人の事実状態の尊重との関係
殺人等の重大被害を与える犯罪では、事実状態を重視するのは不当ではないかとの指摘も踏まえ、この制度趣旨との関係を更に検討する必要がある。
④処罰感情等の希薄化との関係
凶悪・重大犯罪については、被害者等の処罰感情は希薄化しないとの指摘もあるところ、現行の時効期間を踏まえ、この制度趣旨との関係を検討する必要がある。
-以上、法務省 凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方について~制度見直しの方向性~-
被害者感情を考えれば、公訴時効は廃止すべきであるという意見があるのも尤もなことである。また、DNA鑑定などの技術が日進月歩、急速に進歩しているなか、犯人を捕まえて刑に服させる機会を失わせることは非常に残念なことである。一方で、公訴時効を廃止すると、国の捜査機関は際限なく捜査を継続することになり、その費用も延々嵩む。我々の税金である。あるいはまた、民法上は、債権者が権利を行使しないで放置しておくとその権利は消滅するとなっており、「権利のうえに眠るものは保護しなくてよい」とされている。刑法による公訴時効が廃止されたとしても、不法行為に基づく損害賠償請求権などの民法上の権利も時効により消滅することになるのだろうかなど、検討すべき課題は様々あるであろう。
一概にその是非について、軽々に語ることはできない。
アレルゲン検査の結果がでたので、この結果に合わせて薬を処方してもらった。
私は、元来アレルギー体質であり、スギやヒノキの花粉が舞う季節のみならず、通年、ジルテックやアレロックなどのアレルギー疾患の治療薬を服用している。
子どもの頃から、皮膚を掻きむしるくらいに痒みを覚え、今でも、薬を飲まないとその痒みは治まらない。人に説明するのは難しいのであるが、最初は、頭からつま先まで皮膚に感覚がなくなり、そのうちものすごく痒くなるのである。しょっちゅう、「骨が見えるまで背中を掻いて」と妻にせがんでいる。
そんなアレルギー体質の私が、ここ数ヶ月、喘息のような咳に悩まされている。
近くの耳鼻咽喉科で診てもらったのだが、対処療法の処置ばかりで、根本的な原因究明はなされなかった。そこで、糖尿病の主治医に相談したところ、一度、アレルギーの原因となるアレルゲンを調べてみたらと勧められ、糖尿病治療のために毎月血液検査をしているので、その検査項目に12項目のアレルゲン検査を加えてもらった。
昨日は、博多に出張で帰宅時間が遅かったので、今日は仕事を早々に切り上げて、主治医のクリニックに行ってきた。
検査結果の詳細は以下のとおりである。
すぎ、ヤケヒョウダニ、コナヒョウダニ、ハウスダスト1、ハウスダスト2、ヒノキ
以上、いずれも陽性。クラスは等級は「3」であった。
はるがや、かもがや、ぶたくさ、よもぎ、ネコ皮屑、イヌ皮屑
以上、いずれも陰性。
居宅は密閉されており、気密性が高い。一日中窓を閉め切っており、仕事から帰っても、この時期すぐにクーラーをつけてしまう。これがいけないらしい。
アレルゲン検査の結果に合わせて処方された薬は、シングレア錠10mgという気管支の収縮を抑えて、呼吸を楽にする薬である。
しかし、こんな薬を飲み続けのは嫌である。アレルギー体質を改善するか、病気に打ち勝つ免疫力をつけるかすべきである。ストレスもあるし、ましてや糖尿病の故、難しい課題である。
只今!博多出張から戻りました。
朝の7時過ぎに家を出て、午前中は事務所でデスクワーク。
11時45分新大阪発の新幹線に飛び乗り、14時13分に博多着。
14時30分から駅近くの会社で会議を開始し、1回の休憩を挟んで20時前までぶっとおし。
会議の内容もheavyでした。そして、帰りは、20時19分博多発の新幹線で新神戸に着いたのが22時49分。やれやれです。
実は、ゆっくりして、中州ででも飲みたかった。せめて博多ラーメンでも…。駅構内の売店に立ち寄る元気も余裕もなかった。本当にお疲れ様でした。そして、おやすみなさい。

私の携帯に主治医から連絡が入った。私の糖尿病を診てくれている医師からである。
糖尿病は様々な疾患を併発させるので、身体に変調を来すと、日頃から、すぐに主治医に相談し、対応してもらうようにしている。今日の連絡は、先日行ったアレルゲン検査の結果が出たとのことであった。
主治医によると、ハウスダストとイエダニに極度のアレルギー反応を示す数値がでているとのことであった。その数値がどの程度重度で、深刻なものなのかは、手元に検査結果のレポートが来ていないので知る由もないが、喘息のような発作的な咳が出ているのは、これらのアレルギー反応が起因しているらしい。今日の検査結果を踏まえ、喘息の薬を処方してもらうことになった。明日は、日帰りで博多に出張なので、明後日クリニックに行くことにした。
現在、糖尿病関係では、インスリン2種類、飲み薬が3種類。そして、アレルギーの薬をすでに1種類服用している。そして、今回、喘息の薬がもう1種類追加されることになった。
やれやれである。
どないなってんねん 今年の阪神!
本日の試合は、阪神vs中日戦 甲子園へ応援しに行った。
6回の裏表まで、3-3の攻防戦だった。
同点で迎えた七回裏1死一、二塁、真弓監督は、桧山進次郎を代打に起用した。
桧山は、期待に応え、中間を破る二塁打のタイムリーヒットを打ち、阪神は4-3と勝ち越し、さらにこの回、高橋光信が犠飛で加点し、阪神は 5-3とする。
そして、次の8回表には、中日が1点を追加し、阪神は一点差に詰め寄られるが、最終回、藤川球児が抑えて、阪神が5-4で中日に辛勝した。
本日のヒーローインタビューは桧山だった。本来ならば、ヒーローインタビューに応じるのは、勝ち越しのタイムリーヒットを打った桧山はもちろんのこと、最終、勝利打点を記録した高橋光信もそのはずなのだが、高橋はインタビューを辞退した。桧山は、ヒーローは自分ではなく、高橋と思いつつ、自分がインタビューに応じたのである。桧山は、自分と同じ代打要員の高橋を讃え、少し照れていた。先輩の後輩に対する気遣いだったのかも知れない。
まあ、阪神が勝ってよかった。阪神が勝利した雰囲気を味わって下さい。


『自分らしく生きるために』
(ルカ19章1-10節)
ザアカイはイエス・キリストと出会うことによって何を知ったのだろうか
1.イエス・キリストが自分を愛していることを知った
自分らしく生きることは、神が私たちを愛していることを知ることから始まる。
まず、ザアカイが驚いたのは、イエスが自分の名前を知っていたことである。自分の名前など呼ばれることはなく、罪人と呼ばれていた。ザアカイは、近頃有名になっていたイエスが自分の名前を知っていたばかりでなく、愛していると知って驚いたのである。ザアカイは、イエスに受け入れられたい、親しい関係を築きたいと思っていた。
自分らしく生きるということは、自分が愛されていることを感じ、高価な存在であると認められていることを知らなければならない。嫌われていると感じるならば、自分らしく思うどころか、人を羨み、他人の人生のようにありたいと思ってしまう。いくら、生理的な欲求が満たされていたとしても、愛による交わりがなければ、自分らしく生きようとは思わないのである。ザアカイは、イエスとの出会いを通して、自分が愛されていると認識したのである。
2..イエス・キリストが自分を認めていることを知った
人々は、イエスが罪人のところへ行ったと非難した。ザアカイは、自分が他人から受け入れられず、軽蔑されていることを知っていた。けれども、ザアカイは、イエスがこのような罪人でさえも理解して、認めてくださったことを知る。人々は、ある人を罪人と評価してそれで終わるかも知れない。しかし、イエスは、見下ろすポジションではなく見上げるポジションでザアカイを見つめ、受け入れ、認めたのである。人々は、様々な思いで他人を評価する。ある時は認めていながら、ある時は認めなかったりもする。イエスは、変わることなくザアカイを認めたのである。私たちは、他人から認めてもらわなければ、自分らしく生きることはできない。
3..イエス・キリストが自分を探していることを知った
人の子が来たのは、失われたものを捜して救うためである。失われているということは、本来あるべきところに置かれないで、誤ったところに置かれているということである。そのようなものを見つけたときは、元ある場所に戻してやればよい。ザアカイは、あるべきところから逸脱して、間違ったところに置かれていたに過ぎない。イエスは、ザアカイを非難せず、なくてはならないところに戻しただけである。大切なものがそこになければ、捜し出して、元のあるべきところに戻しさえすればそれで充分なのである。ザアカイは、代わりのない、高価で尊いものとして探し出されたということを知ったのである。愛され、求められているからこそ、自分らしく生きようとするのである。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう(黙示録 / 3章 20節)。
キリストは戸口に立ってノックする。それは、戸を開けることを強要しているのではなく、私たちがノックの音を聞いて素直に戸を開くのなら、キリストはその中に入り、招き入れた人と一緒に食事をしようとされているのである。私たちは、ザアカイと同様に、喜んで迎え入れたいと望むものである。
-完-
『自分らしく生きるために』
(ルカ19章1-10節)
自分らしく生きることができればどんなに素晴らしいことであろう。借り物ではなく、人まねでもない。小さくても、弱くとも自分らしい人生を歩みたいと願うものである。
私たちは、イエス・キリストに出会うことによって、神によって与えられた自分の人生を発見することができる。今朝は、ザアカイのイエスとの出会いを検証する。
ザアカイは、エリコという町の取税人のかしらであり、ローマ政府に納める税金をユダヤ人から徴収し、徴収した税金の一部を公の職務にことよせて、不正な取り立てをして私腹を肥やしていた。エリコの町は、ヨルダン川西岸地区の東部にあり、エルサレムの町に入る入り口にも位置し、ヨルダンの東部にも抜ける拠点ともなっていたため、たいへん豊かな町であった。だからこそ、ローマ政府はこのパレスチナの中心的な地域を課税対象としていたのである。
そして、この地域の取税人のかしらとなれば、相当な財を築いていただろうことは容易に想像できる。しかし、一方で、民衆の労働の成果を搾取するザアカイは悪人であり、罪人であると非難されていた。
聖書の話からははずれるが、アメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908- 1970)の法則によると、人は成長する過程で五つの段階の欲求があり、人は生きるための基本的な欲求に満足すると、次のレベルの欲求を段階的に求めるという。そして、最後に自己実現をしたいという欲求に到達するというのである。
レベル1…生理的欲求-衣食住が満たされる
レベル2…安全の欲求-身体の危険から守られる
レベル3…帰属・愛の欲求-自分が受け入れられる場所、愛される交わりがある
レベル4…承認の欲求-自分が認められ、尊ばれる
レベル5…自己実現の欲求-自分を献げる使命や目的があり、あるべき自分に成長できる
自分らしく生きるということはどういうことか。私たちは、誰でもみな、自分のうちに「変わりたい」、「成長したい」という願望を持っている。私たちは、たいていの場合、着るものも、食べるものも、住むところも与えられており、身体の危険を脅かされることなく生きている。すなわち、レベル1やレベル2の欲求は充足しているかもしれない。しかし、レベル3やレベル4を飛ばして、レベル5に到達することは困難である。
ザアカイも相当な財を築き、安定的な生活を送っていたことであろう。しかし、ザアカイは、罪人と陰口をたたかれ、蔑まれ、憎まれていた。それこそ、生理的な欲求は充足していたかも知れないが、ザアカイは誰からも受け入れられず、孤独であり、愛されることもなく、もちろん尊敬されることもなかった。つまり、裕福ではあったが、決して幸福とは言えなかった。
そんな孤独感に苛まれたザアカイは、積極的にイエスに会いたいと決心するのである。ザアカイは、みんなから憎まれていたので、群衆に交じってイエスに会いに行くことは危険な行為だったかも知れない。小突かれたり、ともすれば、殺されるという生と死の背中合わせの恐怖感があったと想像する。しかし、ザアカイの心のうちにも、「変わりたい」、「成長したい」とう願いがあったのである。ザアカイは背が低かったので、イエスを見るためにいちじく桑の木に登ったとあるが、彼の必死な思いが伝わってくる。そのザアカイの姿を見上げてイエスは言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えたのである。
イエスと出会ったザアカイの心の中に変化があらわれ、人生に大きな転機が訪れる。彼は、不正な方法で得てきた財産の半分を貧しい人々のために施し、残りの半分を不正で得た金員の賠償金として四倍にして支払うということであった。旧約聖書の時代では、金銭的な盗難や横領の罪で有罪となった者は、その損害の二倍の賠償金を支払わなければならないとなっており、法が規定する賠償の基準からすれば、法外であったかもしれない。ザアカイの変わりようが伺える。
ザアカイはイエス・キリストと出会うことによって何を知ったのだろうか
-つづく-
本日は7月の治療日だった。
いつもの通り、まずは採血をして、体重測定、血圧測定、血糖値測定などを行った。
体重:[72.10]kg
血圧:[136/96]mmHg
血糖値(食後3.5h):[108]mg/dl
ヘモグロビンA1c:[6.7]% 前月精密[6.3]%
今朝の朝食チェック
鮭と昆布のおにぎり(大)、キャベツサラダ(ノンオイルドレッシング)、
ジャスミンティ、プラム(すもも)
血糖値が高めなのが目立つ。原因はなにか?
従前は、ノボラピッド®注300という超速効型のインスリンを使用していたが、このタイプは、食前に注射を打つもので、10乃至20分で効果が現れ、持続時間も4時間程度と短いものである。ノボラピッド®注30は、細胞のインスリン受容体と結合することにより、ブドウ糖の取り込みを促進し、血糖値を下げるという効果がある。なので今は、食前の血統値が150 mg/dlを超えるときのみ使用している。更にこれに加え、レベミル®注300というインスリンを併用している。ノボラピッド®注300が食後に上昇する血糖値を抑える効果があったのに対し、レベミル®注300は、空腹時血糖値を安定させる基礎インスリン製剤であり、就寝前に1回打つだけで24時間持続するタイプである。しかし、就寝前に打つタイプのため、疲れてしまってそのまま寝てしまうことが多く、頻繁にうち忘れるのである。これが血糖値を上げている一因と考えられる。また、運動不足も否めない。
糖尿病とは別に、夜になると咳き込む症状が治まらない。熱もなく鼻水も出ていない。また、喉の炎症も見られないので、アレルギー性の咳かもしれないとのことで、今回の血液検査にアレルギー検査項目を加えてもらった。アレルギーの原因となるアレルゲン10項目をピックアップして検査するそうである。医師が、そのアレルギー項目を列挙したが、全部聞き取れなかった。覚えている限りでは以下のとおりである。
詳細は次回に判明する予定であり、検査結果に応じて、アレルギーの薬を処方してもらうこととなった。
<アレルゲン項目>
室内塵…ハウスダスト、ダニ
樹木花粉 …スギ、ヒノキ
雑草花粉…ブタクサ
その他…etc
次回の診察は、[8/8]土曜日午前[10]時[10]分から
何ヶ月振りだろうか、北の新地で和食のコース料理いただいた。老舗の八百屋が開いたお店だけあって、食材に拘ったお店だった。料理はすべて旬の野菜と魚、そして、肉も取り入れられたコースである。人気のコースは、彩コース。一人10,500円也
以前に比べ、外食することが、めっきりと少なくなったのは、糖尿病を意識してのことである。
ヘルシーコースではあったが、糖尿病治療を明日に控え、アルコールの量が少し多かったかもしれない。
阪神真弓を応援する観戦ツアー
阪神タイガースを応援するための観戦ツアーは、毎年恒例の教会有志の企画である。個人的には、毎年最低一回は応援しに行くのだが、この観戦ツアーには今年はじめて参加する。
今年のタイガースは、借りて来た猫のようにおとなしい。昨年は優勝を逃し、悔しい思いをしたものの、ここ何年かは、チームの力も安定し、常勝チームと変貌を遂げた。と思っていたのだが、昔の弱い時代のタイガースに後戻り。弱いときにこそ応援するのが、本物のタイガースファンであると思いつつ、あまりにも腑甲斐無いので、こちらも力が抜けてしまっている。
観戦の模様は追って中継?する。
「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法案」
いわゆる「水俣病救済法」が、8日の参議院本会議で賛成多数により可決し、成立した。
水俣病救済法は、現行の国の認定基準で水俣病と認められない患者にも、一時金を支給するなど被害者を救済し、問題を解決する法律。ある種の政治決着との批判の声もある。
水俣病は、工場などから環境中に排出された有機化合物が魚などに蓄積され、この汚染された魚などを食べることで発症した中毒性の神経系の病気である。特に1950年代から1960年代にかけて、アセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が工場廃液として大量に水俣湾に流され、住民らに被害が及んだものである。その後、新潟県の阿賀野川流域でも、アセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液が原因で、同様の患者の発生が確認され、これを第二水俣病と言う。しかし、政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年のことである。
当時、私は小学校の低学年であり、社会の時間に三大公害病などを習ったことを記憶する。高度成長期真っ只中の時代であり、企業が利潤追求を優先するあまりに引き起された悲劇であると先生が熱弁を振るっていたのを思い出す。
しかし、企業は、相も変わらず、現在の時代も利潤の追求を続けており、人命は軽んじられていると思うのである。そして、国の対応は、いつも後手に回っている。
この齢になれば、七夕だからといって格別の思い入れもなく、これといってイベントがあるわけでもない。事務所の近くで、新地のおねえさんが、浴衣姿で闊歩していることくらいか。
そうそう、昔のことを思い出した。時代は幼稚園の頃にまで遡る。
幼稚園での行事で、七月七日の夜に、皆が浴衣を着て、何かを踊るというイベントがあった。七夕の夜に何を踊るのかとそのとき不気味に思った。浴衣を着てフォークダンスを踊るのもおかしいし、盆踊りにしては時期尚早である。今思えば、あの踊りは小町踊だったのだ。
そのとき用意された浴衣には不満はなかったが、履物が気に入らなかった。草履ではなく、下駄だったのだ。幼心にも、何となく下駄が恰好悪いと思ったのであった。母のセンスのなさを子ども心に恨んだ。今から考えれば、なぜ下駄がダメで草履がよかったのか。下駄を履くと踊りにくいという理由なら理解できるが、なぜ、下駄が恰好悪く、草履なら恰好がよいと思ったのか、その理由を全く覚えていない。結局、下駄を気に入ってくれた男の子がいて、その子の草履と交換してもらった。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。
あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない(マタイ / 6章 24節 )。
上記の聖書のことばは、神と人との関係を、主人と奴隷との主従関係を例に説明している箇所である。
所有権は、物を排他的に、全面的にかつ完全に支配する権利である。つまり、共有でない限り、ひとつの物に二人の所有者はあり得ないのである。
古代社会における主人と奴隷の関係について、以下の二点を理解する必要がある。
第一に、律法の上では、奴隷は人間でなく物であった。奴隷は自分の権利を有していなかった。主人は奴隷を所有し、所有者の自由意思によって使用し、処分することができたということである。
第二に、奴隷は自分の時間を持つことを許されていなかった。生活のすべての時間は主人のものであり、主人は奴隷を自由に拘束することができた。
奴隷は、いついかなるときでも、主人のために働かなければならなかった。
『神の選びの確かさを知っているか』
-キリストの福音に生きる(32)-
(ローマ書9章6-18節)
先週に続いて、ローマ書9章から
パウロは、ローマ書1章から8章までにおいて、福音について語ってきた。
パウロは、伝道者として、特に異邦人のために、伝道する使命を受けていた。パウロは福音を語るために各地を回ったが、どこで伝道するにせよ、まずは、ユダヤ人の集まる会堂に行き、ユダヤ人に福音を語っていた。しかし、ほとんどのユダヤ人が福音を拒絶した。本来、ユダヤ人たちが神に選ばれ、この福音を受け取るべき者だったはずなのに、福音を受け入れようとしないのである。どこに行っても同じ反応であった。一方で、神から疎遠であり、自らも遠い存在と思っていた異邦人らが、どんどんと信仰によって救われていくのである。
この現実は、パウロにとって悲しみであり、痛みであった。神の愛とは、神がいつも存在し、励まし、祈りに応えてくれるものであったはずである。そして、その愛の究極は、神が人類にイエス・キリストを与えてくださったことである。しかし、この恵を受け取る者にとっては絶大な喜びであったかもしれないが、与える者にとっては、大きな損失であった。パウロは、神の愛の極みを知ったからこそ、ユダヤ人の現実を悲痛に思ったのである。
それでは、なぜ、ユダヤ人たちは福音を拒絶したのだろうか。神の約束が反故にされたからであろうか。神の契約が無効となり、計画は破棄されたからであろうか。あるいは、ユダヤ人は見捨てられたからであろうか。否、そうではない。そのことをを明確にするために、「イスラエルに対する神の選びは変わらない。」というところから、今朝の箇所は始まるのである。
イスラエルに対する神の選びは変わらない。
1.なぜなら、神の約束は生きているからである
パウロは、イスラエルの歴史から二つの例を引用した。アブラハムには、二人の子が存在した。一人は、召使ハガルとの間にできたイシュマエルであり、もう一人は、正妻との間にできた子イサクであった。神は、アブラハムとの約束の中で、アブラハムの子孫に祝福と繁栄を誓われた。しかし、正妻サラには、高齢になっても子が与えられなかったので、神の約束をあきらめ、人間的な方法によって、召使いとの間に子をもうけ、母の名だけを得ようとしたのである。そして、その後、正妻との間にイサクが生まれるのである。イシュマエルもイサクも二人ともアブラハムから生まれた血統であり、子孫であった。しかし、神の約束の子はイサクであり、イシュマエルは人間的な過程によって生まれた子にすぎなかった。ここでいう子孫とは、神の約束の子であったどうかが重要であり、神が繁栄と祝福を約束された子孫は、血肉の子孫であれば誰でもよいと言うわけではなかったのである。
もう一つの例は、イサクの子、エサウとヤコブの双子の話である。イサクとリベカとの間には、二人の男の子がいたが、エサウが兄で、ヤコブが弟であった。本来であれば、長子が跡取りとなるはずであり、「アブラハム-イサク-エサウ」となるはずであったが。神の選びはエサウではなく、ヤコブにあった。そして、「アブラハム-イサク-ヤコブ」という系図になったのである。これらの、二つの例で検証できることは、単にアブラハムの血統的な子孫の全てが選ばれたというわけでなく、とりわけ、神の選びがあったということである。その選びは、人の正しさや功績などとは関係がなく、神の一方的な選びなのである。神の選びは、人間の立場からすれば、独断的で、不公平に思えるかもしれないが、それは、神のご意思に他ならないのである。そして、この選びは生きており、神の約束は変わらないのである。
2.なぜなら、神は絶対的な主権を持っておられるからである。
パウロは、イスラエルの歴史を通して、イスラエルは神の選びの民であり、そこには神の主権が存在すると指摘する。陶器師と粘土の関係で説明する。陶器師は器をつくるとき、絶対的な力を持っており、壊すこともでき、棄てることもできる。そこには、陶器の意思や主張はなく、陶器師に逆らうことはできない。もちろん、人間には自由意思が与えられており、陶器師が粘土を扱うようにではなく、人格あるものとして扱われる。このアナロジーはなかなか理解するのが難しいかも知れないが、これは、私たちが神を選んだのではなく、神の恵と愛の故に私たちを選び、召してくださったのである。それは、私たちの行いが正しかったわけでもなく、優れた功績を残しているからでものない。神の主権をどう理解するかが大切なのであるが、神が主権者であると信じるところに、神の約束は果たされると確信することができるのである。私たちも同様に、神への願いが聞かれようが、聞かれまいが、神が私たちを選んでくださったのは事実であり、最善なのである。それは、決して運命ではない。神の真実は変わらない。神が決断し、神の主権をもって導かれたのである。神のイスラエルに対する約束は変わらない。
3.なぜなら、神の憐れみは尽きることがないからである。
神の選びは、人の行為の正しさや、優れた功績によるものではなく、ただただ、神の一方的な恵であり、憐れみであり、それは、神の意思に他ならない。しかし、ある人は選ばれ、ある人は選ばれない。それでは、神は全く独断的で、不公平ではないかと、人間に理解できないところもある。だが、そうではないのである。イスラエルの民は金の子牛を礼拝し、罪を犯した。モーセの真剣な祈りと懇願から、イスラエルの民は神による徹底的な壊滅からは救われた。イスラエルの民は滅ぼされて当然、見捨てられて当然、裁かれて当たり前だった。神のモーセに対する答えは、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」であった。ここにも、神の選びは、民に対する神の慈愛に満ちた愛の行為によって決定されるのであり、神の御心であることが伺える。そうでなかったら誰も選ばれなかったであろう。神のイスラエルに対する約束は変わらないのであり、今も生きている。変わらない約束だからこそ、異邦人である私たちもその神の約束を信じることができるのである。
モーセの後継者、ヨシュア
・エフライム人でヌンの子。
・出エジプト記17:8-16ではじめてヨシュアの名前が出てくる。
・ヨシュアは、エサウの子孫と言われている遊牧民アマレクとの闘いで勝利を収める。
・民13:16では、モーセがヌンの子「ホセア」を「ヨシュア」と改名したとある。
・モーセの従者として、ともにシナイ山に登るが、そのとき、イスラエルの民が金の子牛の像を造り、偶像の前で踊っていたのを見た(出エジプト32:17-19)。
・モーセがカナンの地を探察させるために、イスラエル十二部族の中から各候補者を一人ずつ選び、ヨシュアもその一人に選ばれる。結局、約束の地に入ることができたのは、ヨシュアとカレブだけだった。
・イスラエルが40年間荒野を流浪したのち、モーセは神の命により、モーセの後継者としてヨシュアを立てた。
・モーセは約束の地カナンを目前にして120歳で没する。
・ヨシュアは民の指導者として約束の地に入るべくヨルダン川を渡ってカナンに入り、要害の地エリコの町を攻略しようとするが、エリコの町は堅固で攻略するのが難しかったが、難航不落のエリコを攻め落とした。
牧師先生のブログを見ていると、次のとおりのくだりがあった。
…「小学生の時だったが、学校の帰りに近くのお地蔵さんのところで地蔵盆のお菓子の袋をもらって帰ってきたことがある。それを見た母が、いきなり取り上げて、『あなたには違うお菓子を買ってあげる』と言って、ゴミ箱の中に捨ててしまったことがあった。」…
私も、全く同じ経験をしたことがあった。子ども心に、単純にお菓子を食べたかっただけであり、友だちに誘われたくらいの軽い気持だったと思うのだが、地蔵盆でもらったお菓子を家に持って帰ると、酷く母親に叱られた。
また、神社の縁日などに行くことも禁じられていた。露店で売られている玩具や食べ物、催し物などは子どもの頃の憧憬の的であった。
弟妹たちは、兄の叱られる様をみて、要領よく立ち回っていたのではないだろうか。それにしても色々とよく叱られたものである。
師が仰るように、偶像に対する毅然たる態度を諭していたのであろう。そのときの母親は凄く恐かったことを今でも覚えている。
久し振りの聖書シリーズ
毎週、主日礼拝で暗誦聖句カードが配布され、次週の礼拝で暗誦する。
几帳面な人なら、カードをフォルダに保存して、その都度読み返していることであろう。
しかし、ずぼらな性格の故、書斎のあちこちにカードが散らばっている。
6/28の主日礼拝でもらったカードも足元に落ちていた。
『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。』
-ヘブル 11:6-
この句のポイントは、二つを信じること。
1.神の存在
2.神は求める者には報いてくださる
神に対し恭敬の意を表することができるのは、神の存在を信じているからである。そして、神の存在を信ずるならば、神がこの世を支配し、愛して下さっていることを知ることができる。
なぜならば、主イエス・キリストによって示された愛があるからである。