釜山滞在記のつづき
私たちのホストファミリーは、草邑教会で執事を務めておられるパクさんとコウさんご夫婦だった。歓迎会の後に、ご主人のコウさんが車で迎えに来てくださった。教会から車で10分程度と、わりと近いところにある高層マンションの4階が彼らの住まいである。
お土産げにボヘミアンガラスの花瓶と日本のお菓子を手渡した。部屋に入ると、オンドルの床が温かく、広いリビングルームでくつろがせてもらった。コーン茶と韓国のお煎餅や果物をいただきながら、お互いの自己紹介をしあった。言葉が通じない。もちろん英語も日本語も・・・
韓国人は、公用語で韓国語(朝鮮語)を話し、文字は主にハングルを用いているようである。観光中のバスの中で、ハングルはどんな言語をも表記できる優れた文字であると紹介されていた。私たちは、漢字で筆談を始めたが、先方も漢字も辞書を引きながらという具合で、聞きたいこと話したいことは山程あるのだが、やはり、言葉の障壁は厚かった。思うように会話ができないので、はがゆく思い、やはりハングルを覚えるしかないのかなと思った。
突如、コウさんが携帯電話を架けだした。日本語の話せる友人と電話で話し出したのである。教会の方ではないらしいが、どなたか存じないが、その男性に通訳してもらい、ようやく会話が成立したのである。断片的ではあるが、会話の中で少しずつコミュニケーションがとれ、以下のことがわかった。
コウさんは土木設計技師で、これまで、大田(テジョン)橋梁などの建設に携わってきたこと。お父さんはかつて長老を務めておられたということ。また、日本人と結婚して現在横浜に住んでおられるお姉さんがおられることなどである。そのお姉さんとも、国際電話で暫く日本語で会話をした。お姉さんは熱心なクリスチャンのようで、横浜のメソジスト教会に集っておられるそうである。コウさん家族は、お姉さんが横浜に住んでおられることもあり、東京と横浜には行ったことがあるとのことで、話の流れから、東京デイズニーランドのスプラッシュマウンテンに乗っっている写真を見せてもらった(我が家にも同じような写真が何枚かある)。
奥様のパクさんは草邑教会の執事で、朝食のお祈りも奥様がされていた(どこかの家庭と同じである)。二人とも私たち夫婦と同世代である。
ソウルで看護士をしている長女と、受験勉強で大変な高校生の次女の4人家族ということがわかった。私たちは今ソウルで暮らしている長女の部屋を使わせてもらった。
短い間ではあったが、言葉が通じない中、パクさんの心のこもった家庭料理と沢山のお土産ももらい、そのおもてなしは充分にこちらに伝わった。
この次は、パクさんファミリーに西宮を訪問していただき、横浜からお姉さんにも来ていただきたいと伝えた。
『一つにつながっている私たち』
-キリストの福音に生きる(41)-
(ローマ書12章3-8節)
ローマ書の講解説教である。前半部分では福音の教理的な教えについて語られているが、後半部では、この地上でどのように生きていくか、教会がどのようにあるべきか、すなわち、福音の実践的なテーマについて語られている。
本日のメッセージは、私たちがイエス・キリストにあって、お互いにどのような者であるべきか、どのような関係にあるべきかについて学ぶ。
1.孤立していない。ひとつのからだとされている
パウロは、教会をキリストのからだと例えている。また、教会は神の家族とも表現する。
キリストのからだと神の家族との共通点はどこにあるのだろうか。
からだは、それぞれの部分によって構成されているものであり、家族は、親子、兄弟など、一人一人によって結ばれた親族関係を基礎にして成り立っている。
からだの各部分はそれぞれ独自の機能を果たしているが、生命を維持するためにはどれも不可欠な要素であり、これらが調和してはじめて生命は維持されるのである。
家族も同様であり、構成員の一人一人が個々の役割を果たし、相互に協力することで成り立っている。誰もが欠かせない存在であり、相互にねたみ合い、言い争っていては家族は成立しないのである。教会はキリストのからだであり、教会に所属する私たちは神の家族である。私たちは、キリストのからだなる教会に所属する者として、教会に与えられた使命にしたがって、その働きの一端を担っている。すなわち、イエス・キリストにあって一つのからだとされているのである。
2.みな同じではない。一人一人に異なる賜物が与えられている
私たちは、それぞれに異なる賜物が神から与えられている。パウロは賜物について「カリスマタ」という言葉を用いているが、「カリスマタ」は、神によって与えられた恵(カリスマ)と同じ語源のことばである。私たちは、神の恵であるこの賜物を個々に与えられているのであり、この賜物を用いるときに、この賜物を与え給うた神をあがめることができるのである。
能力、意欲、情熱、経験、それらは神によって与えられた神の賜物である。どんな人にも神から賜物が与えられているのである。どんな能力を持っているのかではなく、神の恵によって与えられているということこそが重要なのである。
「私には賜物が与えられていない。」と言う人がいるが、与えられていないというのは謙遜な姿ではない。それは、神の恵を拒んでいることである。自分に与えられている賜物に相応しく、人のため、神のために用いることこそが謙遜な姿なのである。賜物とは与えられた自分のために用いるものではなく、神に仕えるために用いるものである。言わば、神に仕えるための道具なのである。持っていることに意義があるのではなく、用いることに意義がある。そしてその目的を成し遂げるためには、神はさらに素晴らしい賜物を与えてくださるのであり、その賜物の持つ能力などをさらに伸ばしてくださるであろう。
3.私たちはお互いを必要としている。一つにつながっている
からだは、それぞれの部分が、与えられている機能を果しているときに健康である。それぞれの部分は相互の機能を否定したり、羨むことはない。
教会は、神に与えられた賜物を用いるところである。優れている賜物が与えられているからといって、神のために用いられるとは限らない。賜物を用いるときの姿勢や態度が大切なのである。思い上がってはいけない。慎み深くあるべきである。その慎みは、人間的な、あるいは、日本人的な奥ゆかしさではない。また、一つにつながっているというのは、日本人の和の心でもない。まず神との関係が大切なのであり、神から与えられている信仰の量りに応じて深く慎むべきなのである。それは、大海原の上を小舟で浮かんでいるようなものである。大海原の上では、自分の位置を確認し、定める指標を持ち得ないが、そのとき、上を見上げ星を見るのである。人と比べて、自分に与えられている賜物があるとかないとか、優れているとか優れていないとかではない。神から与えられている賜物は神を見上げて、その信仰の量りに応じて用いられるべきなのである。世には評価されないかも知れないが、どんなときでも神を見上げて、自分に与えられた賜物を喜んで、受け入れて生きていくのである。
すべての人が、神が与えられた能力に応じて役割を担っているのであり、賜物を知るべきである。そして、お互いに尊敬し、必要とすることを知らなければならない。そして、お互いになくてはならない存在であり、神の家族なのである。
皆に神の家族とされたこの喜びを伝えたい。
本日の礼拝は、子どもたちの奉仕により導かれた。神に仕える者とし、神から与えられている恵みを享受し、その喜びを知ることができるように祈るものである。
-キリストの福音に生きる(41)-
(ローマ書12章3-8節)
ローマ書の講解説教である。前半部分では福音の教理的な教えについて語られているが、後半部では、この地上でどのように生きていくか、教会がどのようにあるべきか、すなわち、福音の実践的なテーマについて語られている。
本日のメッセージは、私たちがイエス・キリストにあって、お互いにどのような者であるべきか、どのような関係にあるべきかについて学ぶ。
1.孤立していない。ひとつのからだとされている
パウロは、教会をキリストのからだと例えている。また、教会は神の家族とも表現する。
キリストのからだと神の家族との共通点はどこにあるのだろうか。
からだは、それぞれの部分によって構成されているものであり、家族は、親子、兄弟など、一人一人によって結ばれた親族関係を基礎にして成り立っている。
からだの各部分はそれぞれ独自の機能を果たしているが、生命を維持するためにはどれも不可欠な要素であり、これらが調和してはじめて生命は維持されるのである。
家族も同様であり、構成員の一人一人が個々の役割を果たし、相互に協力することで成り立っている。誰もが欠かせない存在であり、相互にねたみ合い、言い争っていては家族は成立しないのである。教会はキリストのからだであり、教会に所属する私たちは神の家族である。私たちは、キリストのからだなる教会に所属する者として、教会に与えられた使命にしたがって、その働きの一端を担っている。すなわち、イエス・キリストにあって一つのからだとされているのである。
2.みな同じではない。一人一人に異なる賜物が与えられている
私たちは、それぞれに異なる賜物が神から与えられている。パウロは賜物について「カリスマタ」という言葉を用いているが、「カリスマタ」は、神によって与えられた恵(カリスマ)と同じ語源のことばである。私たちは、神の恵であるこの賜物を個々に与えられているのであり、この賜物を用いるときに、この賜物を与え給うた神をあがめることができるのである。
能力、意欲、情熱、経験、それらは神によって与えられた神の賜物である。どんな人にも神から賜物が与えられているのである。どんな能力を持っているのかではなく、神の恵によって与えられているということこそが重要なのである。
「私には賜物が与えられていない。」と言う人がいるが、与えられていないというのは謙遜な姿ではない。それは、神の恵を拒んでいることである。自分に与えられている賜物に相応しく、人のため、神のために用いることこそが謙遜な姿なのである。賜物とは与えられた自分のために用いるものではなく、神に仕えるために用いるものである。言わば、神に仕えるための道具なのである。持っていることに意義があるのではなく、用いることに意義がある。そしてその目的を成し遂げるためには、神はさらに素晴らしい賜物を与えてくださるのであり、その賜物の持つ能力などをさらに伸ばしてくださるであろう。
3.私たちはお互いを必要としている。一つにつながっている
からだは、それぞれの部分が、与えられている機能を果しているときに健康である。それぞれの部分は相互の機能を否定したり、羨むことはない。
教会は、神に与えられた賜物を用いるところである。優れている賜物が与えられているからといって、神のために用いられるとは限らない。賜物を用いるときの姿勢や態度が大切なのである。思い上がってはいけない。慎み深くあるべきである。その慎みは、人間的な、あるいは、日本人的な奥ゆかしさではない。また、一つにつながっているというのは、日本人の和の心でもない。まず神との関係が大切なのであり、神から与えられている信仰の量りに応じて深く慎むべきなのである。それは、大海原の上を小舟で浮かんでいるようなものである。大海原の上では、自分の位置を確認し、定める指標を持ち得ないが、そのとき、上を見上げ星を見るのである。人と比べて、自分に与えられている賜物があるとかないとか、優れているとか優れていないとかではない。神から与えられている賜物は神を見上げて、その信仰の量りに応じて用いられるべきなのである。世には評価されないかも知れないが、どんなときでも神を見上げて、自分に与えられた賜物を喜んで、受け入れて生きていくのである。
すべての人が、神が与えられた能力に応じて役割を担っているのであり、賜物を知るべきである。そして、お互いに尊敬し、必要とすることを知らなければならない。そして、お互いになくてはならない存在であり、神の家族なのである。
皆に神の家族とされたこの喜びを伝えたい。
本日の礼拝は、子どもたちの奉仕により導かれた。神に仕える者とし、神から与えられている恵みを享受し、その喜びを知ることができるように祈るものである。
観光と買い物を終えて、草邑教会に到着する。小高い丘の上に4階建の教会堂が悠然と構えていた。左手には幼稚園、右手には来春完成予定のビジョンセンターが建設中である。
バスから降りると、教会の玄関で、教会のメンバーが大勢で列を組んで歓迎の賛美を歌ってくれている。また、主任牧師の李先生(森田健作に似たハンサムガイ。私たちの教会の主任牧師と同じ51歳)が一人一人を握手で迎えてくださった。
地下の食堂に案内されると、入り口では、ウエイター姿の青年会のメンバーが、まるでプロのホテルマンのように恭しく出迎えてくれた。訪問チームの各メンバーは宿泊先ごとにホストファミリーと一緒の席についた。各テーブルには韓国料理が美しく盛りつけられている。千枚漬みたいなので色とりどりの野菜を巻いた前菜、サラダ、スープ、ホヤや魚介類の刺身、高麗人参や青唐辛子に豆腐などを詰めた天ぷら、ネギとエビのジョン、かぼちゃのおかゆ、ムルキムチ、白菜キムチ、プルコギ、チャプチェ・・・等々。食材が豊富で野菜がたっぷりのメニューは糖尿病にも良さそうだ。3人の奉仕者がこれらの料理を手作りしてくださったそうである。
(料理好きの妹が撮った写真を拝借した。写真の上にカーソルを置くと料理名が表示)




牧師先生や長老の温かいご挨拶や、青年の歓迎の賛美など、愛のこもった和やかな歓迎会が開かれた。
西宮教会から草邑教会に記念品の贈呈。K先生渾身の書で、素晴らしいみことばの額であった。「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝せよ」と書かれていた。
草邑教会から訪問チームのメンバーに贈られたプレゼントは、100周年記念の教会堂が描かれた陶器の器と、高麗人参茶だった。
訪問チームのメンバー紹介。Mさんが、この日は次女の12歳の誕生日であることに触れると、そのことを知った教会の方が急遽バースデーケーキを用意してくださった。M家全員でロウソクを吹き消し、みんなでお祝いするという楽しいサプライズもあった。心憎い演出とその対応の早さに驚喜した。
昨今、日本では失われつつある「もてなしの心」が、この歓迎会では充分に尽くされていた。

バスから降りると、教会の玄関で、教会のメンバーが大勢で列を組んで歓迎の賛美を歌ってくれている。また、主任牧師の李先生(森田健作に似たハンサムガイ。私たちの教会の主任牧師と同じ51歳)が一人一人を握手で迎えてくださった。
地下の食堂に案内されると、入り口では、ウエイター姿の青年会のメンバーが、まるでプロのホテルマンのように恭しく出迎えてくれた。訪問チームの各メンバーは宿泊先ごとにホストファミリーと一緒の席についた。各テーブルには韓国料理が美しく盛りつけられている。千枚漬みたいなので色とりどりの野菜を巻いた前菜、サラダ、スープ、ホヤや魚介類の刺身、高麗人参や青唐辛子に豆腐などを詰めた天ぷら、ネギとエビのジョン、かぼちゃのおかゆ、ムルキムチ、白菜キムチ、プルコギ、チャプチェ・・・等々。食材が豊富で野菜がたっぷりのメニューは糖尿病にも良さそうだ。3人の奉仕者がこれらの料理を手作りしてくださったそうである。
(料理好きの妹が撮った写真を拝借した。写真の上にカーソルを置くと料理名が表示)








牧師先生や長老の温かいご挨拶や、青年の歓迎の賛美など、愛のこもった和やかな歓迎会が開かれた。
西宮教会から草邑教会に記念品の贈呈。K先生渾身の書で、素晴らしいみことばの額であった。「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝せよ」と書かれていた。
草邑教会から訪問チームのメンバーに贈られたプレゼントは、100周年記念の教会堂が描かれた陶器の器と、高麗人参茶だった。
訪問チームのメンバー紹介。Mさんが、この日は次女の12歳の誕生日であることに触れると、そのことを知った教会の方が急遽バースデーケーキを用意してくださった。M家全員でロウソクを吹き消し、みんなでお祝いするという楽しいサプライズもあった。心憎い演出とその対応の早さに驚喜した。
昨今、日本では失われつつある「もてなしの心」が、この歓迎会では充分に尽くされていた。

金海国際空港に到着すると、草邑教会の長老や通訳の美人姉妹が出迎えに来られていた。
訪問チームは、副牧師が運転する教会幼稚園のバスで、釜山の南浦(ナンポ)洞へ向った。途中で草邑教会の他のメンバーと合流する。
ナンポ洞のジャガルチ市場は、戦後の闇市?を連想させる雰囲気で、露天商や屋台がひしめきあっていてた。いうまでもなく日常の食材も売られている。

「偽物あるよ!!」と声を掛けられたので、振り返ってみると、明らかに、商標権を侵害していると思われる偽ブランド商品が店頭に並べられており、著作権者に無断で著作物の複製品が販売されていた。
御当地の生活様式を知るためには、まず食文化だと、血糖値を気にしながら色々食べ歩いた。妹が、本当に血糖値を気にしているのかと心配(揶揄?)した。

ポットという甘いお餅、おでん、トッポギ、にらチヂミ、ついでにケンタッキーフライドチキン(味付けはやはり日本よりピリ辛)と、東京では行列のできるクリスピークリームドーナツも食べてみた。妻は今流行の「BBクリーム」を買い込んでいた。草邑教会のご婦人と二人で当たり前のように値切っていた。どこの国も女性は大したものである。

訪問チームは、副牧師が運転する教会幼稚園のバスで、釜山の南浦(ナンポ)洞へ向った。途中で草邑教会の他のメンバーと合流する。
ナンポ洞のジャガルチ市場は、戦後の闇市?を連想させる雰囲気で、露天商や屋台がひしめきあっていてた。いうまでもなく日常の食材も売られている。

「偽物あるよ!!」と声を掛けられたので、振り返ってみると、明らかに、商標権を侵害していると思われる偽ブランド商品が店頭に並べられており、著作権者に無断で著作物の複製品が販売されていた。
御当地の生活様式を知るためには、まず食文化だと、血糖値を気にしながら色々食べ歩いた。妹が、本当に血糖値を気にしているのかと心配(揶揄?)した。

ポットという甘いお餅、おでん、トッポギ、にらチヂミ、ついでにケンタッキーフライドチキン(味付けはやはり日本よりピリ辛)と、東京では行列のできるクリスピークリームドーナツも食べてみた。妻は今流行の「BBクリーム」を買い込んでいた。草邑教会のご婦人と二人で当たり前のように値切っていた。どこの国も女性は大したものである。

1994年1月に、神戸や教会のある西宮は大震災に見舞われるが、そんな悪夢が覚めやらぬ同年4月、西宮教会の訪問チームが姉妹教会の訪問団として草邑教会を訪問した。
西宮教会の訪韓を受けて、今度は、私たちが草邑教会の訪問チームを迎える番となった。
我が家にも、一組の同じ世代の夫婦を招きホームステイしていただくことになるのである。
同年6月、草邑教会から牧師夫妻を含め14名のメンバーが西宮にやって来られた。
私たちの狭い家に宿泊してくださったのは、キムさんご夫妻だった。このご夫婦は、執事の職を務めておられる信仰熱心な長身のご主人と、共に主に仕えておられる小柄な奥様であった。草邑教会からの初訪問ということで、小学生の2人の子どもを家に残しての訪日とのことである。観光で日本橋の電気店を訪れた際に、子どもたちへのおみやげにと電卓を一生懸命選んでおられた姿は印象的であった。
言葉がお互いに通じないので、漢字の筆談と片言の英語とを織り交ぜてのコミュニケーションだったが、地震の話題や、両国の住宅事情、経済情勢、食文化の話などで盛り上がった。
帰国後、日本で一緒に撮った写真や、家族のポートレートをアルバムにして、ハングルで書かれた手紙とともに送ってくださり、9月の妻の誕生日には、釜山から国際電話で家族全員によるハッピーバースデーの歌のプレゼントも賜った。さらに、クリスマスには綺麗なカードも届いた。
・・・にもかかわらず、英語で送った手紙にハングルで返事がくるといった具合で、言葉の障碍が厚く、次第に疎遠になっていった。然う斯うしているうちに、夫婦共々仕事が多忙になり、時間的余裕も、心の余裕もなくなっていった。私自身も教会に行かなくなり、いずれまたと思っているうちにとうとう14年の年月が過ぎてしまったのである。その間、教会同士の交流は続いていたのであり、妹夫妻、青年会のメンバーが、キムさん夫婦の家に泊めて頂いていたことも洩れ聞いていた。私たち夫婦が元気にしているかどうか気遣ってくださっていることも妹から聞いていた。考えてみれば、随分と不義理を重ねていたものである。
そして、今般の訪問となったのである。妻は教会の交わり担当の執事であり、立場上参加しなくてはならない事情があり、主任牧師からは夫婦での参加を強く求められていた。幸い3連休でもあり、教会の名誉を保てるようにと参加を承諾した。
優柔不断にも訪韓を躊躇した気持の裏には、教会同士の愛のある交流をしなければならないという使命感もさることながら、キムさん夫妻に再会して不義理を詫びたいという思いがある一方で、お詫びの気持を受け止めて貰えるのか、遠い昔のことは忘れ去られているのではないだろうかと不安が交錯し、なんとなく複雑な心境に陥ってしまっていたのである。配布された資料のホームステイ先のリストにはキム夫妻の名前はなかったし、今も草邑教会におられるのかどうかも定かではない。色々考えていると悶々と悩んでいた。とりあえず、今回泊めて頂くホストファミリーへのお土産と、無駄になるかも知れないと思いつつ、キムさん夫妻が残してくれた14年前のゲストアルバムの写真をカラーコピーして、簡素なお土産を携えて出発した。釜山の金海国際空港に到着すると、草邑教会の長老の方々や、通訳の美人姉妹が出迎えてくださっていた。
翌日、記念礼拝に参列した。私たちは「西宮教会」と書かれた招待席に座って礼拝が始まるのを待っていた。するとそこへ突然、キムさんご夫妻が駆け寄って来た。14年前のあのキムさん夫妻であった。
彼らは、泣きながら何度も握手してくれた。再会を互いに喜び抱き合った。不義理のお詫びを打ち消すように何度も何度も堅い握手をしてくれた。・・・そして4人で泣いた。訪韓前の複雑な思いも心のわだかまりも氷解し、瞬時に14年前の関係に戻れた気がした。神の家族とは何と素晴らしいものかと感涙にむせび、神に感謝したのである。
西宮教会の訪韓を受けて、今度は、私たちが草邑教会の訪問チームを迎える番となった。
我が家にも、一組の同じ世代の夫婦を招きホームステイしていただくことになるのである。
同年6月、草邑教会から牧師夫妻を含め14名のメンバーが西宮にやって来られた。
私たちの狭い家に宿泊してくださったのは、キムさんご夫妻だった。このご夫婦は、執事の職を務めておられる信仰熱心な長身のご主人と、共に主に仕えておられる小柄な奥様であった。草邑教会からの初訪問ということで、小学生の2人の子どもを家に残しての訪日とのことである。観光で日本橋の電気店を訪れた際に、子どもたちへのおみやげにと電卓を一生懸命選んでおられた姿は印象的であった。
言葉がお互いに通じないので、漢字の筆談と片言の英語とを織り交ぜてのコミュニケーションだったが、地震の話題や、両国の住宅事情、経済情勢、食文化の話などで盛り上がった。
帰国後、日本で一緒に撮った写真や、家族のポートレートをアルバムにして、ハングルで書かれた手紙とともに送ってくださり、9月の妻の誕生日には、釜山から国際電話で家族全員によるハッピーバースデーの歌のプレゼントも賜った。さらに、クリスマスには綺麗なカードも届いた。
・・・にもかかわらず、英語で送った手紙にハングルで返事がくるといった具合で、言葉の障碍が厚く、次第に疎遠になっていった。然う斯うしているうちに、夫婦共々仕事が多忙になり、時間的余裕も、心の余裕もなくなっていった。私自身も教会に行かなくなり、いずれまたと思っているうちにとうとう14年の年月が過ぎてしまったのである。その間、教会同士の交流は続いていたのであり、妹夫妻、青年会のメンバーが、キムさん夫婦の家に泊めて頂いていたことも洩れ聞いていた。私たち夫婦が元気にしているかどうか気遣ってくださっていることも妹から聞いていた。考えてみれば、随分と不義理を重ねていたものである。
そして、今般の訪問となったのである。妻は教会の交わり担当の執事であり、立場上参加しなくてはならない事情があり、主任牧師からは夫婦での参加を強く求められていた。幸い3連休でもあり、教会の名誉を保てるようにと参加を承諾した。
優柔不断にも訪韓を躊躇した気持の裏には、教会同士の愛のある交流をしなければならないという使命感もさることながら、キムさん夫妻に再会して不義理を詫びたいという思いがある一方で、お詫びの気持を受け止めて貰えるのか、遠い昔のことは忘れ去られているのではないだろうかと不安が交錯し、なんとなく複雑な心境に陥ってしまっていたのである。配布された資料のホームステイ先のリストにはキム夫妻の名前はなかったし、今も草邑教会におられるのかどうかも定かではない。色々考えていると悶々と悩んでいた。とりあえず、今回泊めて頂くホストファミリーへのお土産と、無駄になるかも知れないと思いつつ、キムさん夫妻が残してくれた14年前のゲストアルバムの写真をカラーコピーして、簡素なお土産を携えて出発した。釜山の金海国際空港に到着すると、草邑教会の長老の方々や、通訳の美人姉妹が出迎えてくださっていた。
翌日、記念礼拝に参列した。私たちは「西宮教会」と書かれた招待席に座って礼拝が始まるのを待っていた。するとそこへ突然、キムさんご夫妻が駆け寄って来た。14年前のあのキムさん夫妻であった。
彼らは、泣きながら何度も握手してくれた。再会を互いに喜び抱き合った。不義理のお詫びを打ち消すように何度も何度も堅い握手をしてくれた。・・・そして4人で泣いた。訪韓前の複雑な思いも心のわだかまりも氷解し、瞬時に14年前の関係に戻れた気がした。神の家族とは何と素晴らしいものかと感涙にむせび、神に感謝したのである。
草邑教会の創立100周年を記念する礼拝。説教者は主任牧師の李牧師
同時通訳用のレシーバーを耳につけて、日本語で説教を拝聴した。
記念すべき礼拝メッセージをどんなみとこばで語ろうかと祈っていたところ、ダビデのことが心に浮かんだ。ダビデはユダ族から王として迎えられ、その後、他の十一部族全体から王として選ばれ、サウル王の後継者として、イスラエルの王のとなった人物である。
ダビデの偉大な功績は、エルサレムを攻略し、南北統一の王国を築いたことであり、のみならず、「神の箱」-神から与えられた十戒をモーセが書き写した石版の納められた箱-をペリシテ人から奪還したことである。しかし、最も重要なのは、ダビデが自らの功績を誇るのではなく、主が共におられることを心から喜び、神になだめのそなえものをささげたことである。神が喜ばれるのは、この世の権力を誇示することではなく、遜った態度である。
草邑教会創立100周年の主人公は神である。間違っても、私たちを主人公としてはならない。この栄誉は主のものであり、神に返すべきものである。教会は、復活した主イエス・キリストが私たちと共におられ、聖霊として存在するところである。十字架以外に誇るものはないのである。
Ⅱサムエル記 / 6章 12節 (新共同訳)
神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。
ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
同時通訳用のレシーバーを耳につけて、日本語で説教を拝聴した。
記念すべき礼拝メッセージをどんなみとこばで語ろうかと祈っていたところ、ダビデのことが心に浮かんだ。ダビデはユダ族から王として迎えられ、その後、他の十一部族全体から王として選ばれ、サウル王の後継者として、イスラエルの王のとなった人物である。
ダビデの偉大な功績は、エルサレムを攻略し、南北統一の王国を築いたことであり、のみならず、「神の箱」-神から与えられた十戒をモーセが書き写した石版の納められた箱-をペリシテ人から奪還したことである。しかし、最も重要なのは、ダビデが自らの功績を誇るのではなく、主が共におられることを心から喜び、神になだめのそなえものをささげたことである。神が喜ばれるのは、この世の権力を誇示することではなく、遜った態度である。
草邑教会創立100周年の主人公は神である。間違っても、私たちを主人公としてはならない。この栄誉は主のものであり、神に返すべきものである。教会は、復活した主イエス・キリストが私たちと共におられ、聖霊として存在するところである。十字架以外に誇るものはないのである。
Ⅱサムエル記 / 6章 12節 (新共同訳)
神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。
ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
草邑教会と私たちの教会が姉妹教会となったそもそもの切っ掛けは1992年に遡る。
この年、日本と韓国のキリスト教会が、日本及び韓国の宣教をはじめとして、アジアや世界宣教を協力して行おうとする「日韓宣教協力会」を発足することとなった。
その発足の2年後、この宣教協力会に参加した韓国側の教会と私たちの教会との間で、姉妹関係が結ばれることになるのである。
正式に姉妹教会を締結した年の翌年(1995年)、神戸や教会のあった西宮は、阪神・淡路大震災という大災害に襲われることになるが、そんな悪夢が覚めやらぬ同年4月、私たちの教会に訪問チームが結成され、姉妹教会の第一回訪問団として、草邑教会を訪問することとなるのである。私は当時の訪問チームのメンバーではなかったが、震災復興の最中に訪問する者の気持としては複雑だったのではなかろうかと愚考するものであった。しかし、そのような状況で訪問したメンバーの熱心な信仰や誠実な気持が先方にも伝わったのであろうか、深く感動していただき、熱烈に歓迎され、よき友好関係を築く第一歩の訪問となるのである。
今度は、草邑教会の訪問チームを私たちの教会が迎える番である。我が家にも、同じ世代の夫婦を招きホームステイしていただくことになる。
この年、日本と韓国のキリスト教会が、日本及び韓国の宣教をはじめとして、アジアや世界宣教を協力して行おうとする「日韓宣教協力会」を発足することとなった。
その発足の2年後、この宣教協力会に参加した韓国側の教会と私たちの教会との間で、姉妹関係が結ばれることになるのである。
正式に姉妹教会を締結した年の翌年(1995年)、神戸や教会のあった西宮は、阪神・淡路大震災という大災害に襲われることになるが、そんな悪夢が覚めやらぬ同年4月、私たちの教会に訪問チームが結成され、姉妹教会の第一回訪問団として、草邑教会を訪問することとなるのである。私は当時の訪問チームのメンバーではなかったが、震災復興の最中に訪問する者の気持としては複雑だったのではなかろうかと愚考するものであった。しかし、そのような状況で訪問したメンバーの熱心な信仰や誠実な気持が先方にも伝わったのであろうか、深く感動していただき、熱烈に歓迎され、よき友好関係を築く第一歩の訪問となるのである。
今度は、草邑教会の訪問チームを私たちの教会が迎える番である。我が家にも、同じ世代の夫婦を招きホームステイしていただくことになる。
草邑教会が創立100周年を迎えるということで、100周年を祝う記念式典が韓国釜山市の同教会で開催された。私たちの通う教会は、草邑教会と姉妹教会の関係にあり、この度、草邑教会から正式に招待を受けたので、教会を代表して記念式典に臨席することとなった。
草邑教会と私たちの教会は、1994年に姉妹教会の関係を結んでおり、この年以来、相互に往き来し、親しい愛の交わりをさせていただいている。
今回の記念式典に参列しようと思った私自身の個人的な動機は、阪神・淡路大震災に襲われた14年前に遡る。14年間果たせなかった募る思い。今回、真情にふれて深く感動し、友情も再確認することができた。今回参加できて本当によかった。両教会が姉妹教会となった背景と私の感激について、後日あらためて紹介したいと思う。

草邑教会と私たちの教会は、1994年に姉妹教会の関係を結んでおり、この年以来、相互に往き来し、親しい愛の交わりをさせていただいている。
今回の記念式典に参列しようと思った私自身の個人的な動機は、阪神・淡路大震災に襲われた14年前に遡る。14年間果たせなかった募る思い。今回、真情にふれて深く感動し、友情も再確認することができた。今回参加できて本当によかった。両教会が姉妹教会となった背景と私の感激について、後日あらためて紹介したいと思う。

草邑教会の100周年記念礼拝に参列するため、いまから釜山に向けて出立します。
荷物を最小限にしたかったので、パソコンや携帯の充電器などを置いていくことにしました。
私自身の手荷物は、着替えのスーツのみです。糖尿グッズや筆記用具等はすべて妻の大きなバッグに入れてもらっています。という訳で、ブログの更新もできなくなるでしょう。
過去の投稿できなかった二日間の空白も含め、帰国してから一気に埋めることにしたいと思います。
それでは、行ってきます。
荷物を最小限にしたかったので、パソコンや携帯の充電器などを置いていくことにしました。
私自身の手荷物は、着替えのスーツのみです。糖尿グッズや筆記用具等はすべて妻の大きなバッグに入れてもらっています。という訳で、ブログの更新もできなくなるでしょう。
過去の投稿できなかった二日間の空白も含め、帰国してから一気に埋めることにしたいと思います。
それでは、行ってきます。
あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう(使徒行伝 / 1章 8節 )。
復活のイエスが弟子たちと約束した言葉である。
当時のパレスチナは、古くはバビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマによって、代々支配されてきたところである。ユダヤ人が、エルサレムをはじめとして、ユダヤとサマリヤの全土、さらに世界に向けて宣教に出て行くなどと言うと、権力によって世界を支配するが如く曲解されるかも知れないが、そうではない。主の祈りに、「み心の天になる如く地にもなさせ給え」とあるが、神のみこころが神の国で行われるように、地上においても、権力によってではなく、神の愛によって築かれるのである。
復活のイエスが弟子たちと約束した言葉である。
当時のパレスチナは、古くはバビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマによって、代々支配されてきたところである。ユダヤ人が、エルサレムをはじめとして、ユダヤとサマリヤの全土、さらに世界に向けて宣教に出て行くなどと言うと、権力によって世界を支配するが如く曲解されるかも知れないが、そうではない。主の祈りに、「み心の天になる如く地にもなさせ給え」とあるが、神のみこころが神の国で行われるように、地上においても、権力によってではなく、神の愛によって築かれるのである。
ブログを毎日更新することを行動指針にしているが、とうとう穴が空てしまいそうである。
今週末にはいろいろと題材を仕入れてくるので、追って面白いネタを紹介したいと思う。
今週末にはいろいろと題材を仕入れてくるので、追って面白いネタを紹介したいと思う。
釜山行きの詳細スケジュールが届いた。
釜山の地理に明るくないので、イメージできず、「あぁそうなんだ」といった感じではあるが、20名程度の小グループでの行動なので、はぐれたり、迷子にならぬよう、最低のスケジュールだけは押さえておこうと、備忘のため、とりあえずプログに書きしるした次第である。
11月21日(土)
関西空港を出発し、1時間半で釜山の金海国際空港に到着予定
11:50 関西西国際空港発
13:20 金海国際空着(アシアナ航空OZ143)
13:30 金海国際空港へお迎え
14:00 ナンポ洞観光(ザガルチ市場、国際市場)
15:30 ヘウンデ観光(カンアン大橋、新世界デパート、ヌリマル(APEC開催)
17:30 草邑教会へ移動
18:00 教会到着
歓迎会
20:00 ホームステイ(ホテル)へ移動
11月22日(主日)
11:00 本礼拝参席
12:20 教会の食堂で昼食
食事後 教会近所の公園、HomePlusマート(スーパーマーケット)
15:30 教会戻り
16:00 任職式に参席
その後、ホームステイ家庭との時間
11月23日(月)
07:00 金海国際空港へ移動
09:30 金海国際空港発
10:50 関西国際空港着(アシアナ航空OZ144)
釜山の地理に明るくないので、イメージできず、「あぁそうなんだ」といった感じではあるが、20名程度の小グループでの行動なので、はぐれたり、迷子にならぬよう、最低のスケジュールだけは押さえておこうと、備忘のため、とりあえずプログに書きしるした次第である。
11月21日(土)
関西空港を出発し、1時間半で釜山の金海国際空港に到着予定
11:50 関西西国際空港発
13:20 金海国際空着(アシアナ航空OZ143)
13:30 金海国際空港へお迎え
14:00 ナンポ洞観光(ザガルチ市場、国際市場)
15:30 ヘウンデ観光(カンアン大橋、新世界デパート、ヌリマル(APEC開催)
17:30 草邑教会へ移動
18:00 教会到着
歓迎会
20:00 ホームステイ(ホテル)へ移動
11月22日(主日)
11:00 本礼拝参席
12:20 教会の食堂で昼食
食事後 教会近所の公園、HomePlusマート(スーパーマーケット)
15:30 教会戻り
16:00 任職式に参席
その後、ホームステイ家庭との時間
11月23日(月)
07:00 金海国際空港へ移動
09:30 金海国際空港発
10:50 関西国際空港着(アシアナ航空OZ144)
生きることの幸せはどこにあるのか?という難題に即答できるだろうか。
その昔、「米子 生きるとは」(という題名だったと記憶するが、うろ覚え)という映画を観たことがある。多感な時期に母を亡くした米子は、生きることの幸せはどこにあるのか?という問いに答えが得られず、空虚な気持を抱え、生きることの苦しさを覚え、小田急線の新宿駅ホームから列車に飛び込んだ。一命は取りとめたが、気が付けば、両足と左腕が切断され、残る右手も指三本しか残っていなかった。その後も、彼女は何度も自殺を図る。折れて傷つき、前途に絶望し、誰かに助けを求めたい思いから、堪らず、「神様、助けて」と叫ぶのである。祈りとも叫びとも区別のつかないその声は、彼女の心の底から湧きいずる素直な気持ちから出たものであった。その後、彼女の意識は変わっていく。指が三本しかないと言う思いから、三本もあるという思いに変わるのである。私たちは、何を得たら満足できるのだろうか。充分に満ちあふれていたとしても、満足は得られない。イスラエルの繁栄を極め全てを得たソロモンでさえ、「空の空、一切は空」と嘆いている。
米子の心を突き動かしたのは、次の聖書の言葉だそうである。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(Ⅱコリント / 5章 17節 )
その昔、「米子 生きるとは」(という題名だったと記憶するが、うろ覚え)という映画を観たことがある。多感な時期に母を亡くした米子は、生きることの幸せはどこにあるのか?という問いに答えが得られず、空虚な気持を抱え、生きることの苦しさを覚え、小田急線の新宿駅ホームから列車に飛び込んだ。一命は取りとめたが、気が付けば、両足と左腕が切断され、残る右手も指三本しか残っていなかった。その後も、彼女は何度も自殺を図る。折れて傷つき、前途に絶望し、誰かに助けを求めたい思いから、堪らず、「神様、助けて」と叫ぶのである。祈りとも叫びとも区別のつかないその声は、彼女の心の底から湧きいずる素直な気持ちから出たものであった。その後、彼女の意識は変わっていく。指が三本しかないと言う思いから、三本もあるという思いに変わるのである。私たちは、何を得たら満足できるのだろうか。充分に満ちあふれていたとしても、満足は得られない。イスラエルの繁栄を極め全てを得たソロモンでさえ、「空の空、一切は空」と嘆いている。
米子の心を突き動かしたのは、次の聖書の言葉だそうである。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(Ⅱコリント / 5章 17節 )
これまでプライベートや所用があって、何度も鹿児島を訪れている。
薩摩半島の南端に位置する指宿の砂蒸し風呂や知覧の武家屋敷、知覧飛行場跡は忘れられない。鹿児島で飲んだ芋焼酎また格別であった。

太平洋戦争末期、若い身空の少年飛行兵や学徒出陣を経て見習士官となった者たちが、特別攻撃隊として、知覧から、南の島にむけて散っていった。決して、戦争を美化するものではないし、肯定もしない。むしろ強く拒絶する。戦争は、国益のために闘うと言うが、つまるところ、人間が自らの人間性を失うものである。正義でも聖戦でもない。知覧の桜となった青少年たちにも我が子を愛する父母がおり、君を恋慕する愛するものがいたのである。
だから、どんな理由があろうとも、自ら命を絶つことは悲しいことである。
薩摩半島の南端に位置する指宿の砂蒸し風呂や知覧の武家屋敷、知覧飛行場跡は忘れられない。鹿児島で飲んだ芋焼酎また格別であった。

太平洋戦争末期、若い身空の少年飛行兵や学徒出陣を経て見習士官となった者たちが、特別攻撃隊として、知覧から、南の島にむけて散っていった。決して、戦争を美化するものではないし、肯定もしない。むしろ強く拒絶する。戦争は、国益のために闘うと言うが、つまるところ、人間が自らの人間性を失うものである。正義でも聖戦でもない。知覧の桜となった青少年たちにも我が子を愛する父母がおり、君を恋慕する愛するものがいたのである。
だから、どんな理由があろうとも、自ら命を絶つことは悲しいことである。
『私たちを動かすものは何か』
(ルカによる福音書 / 5章 17-26節)
本日は、ニューコミュニティの3つのチャペルが集うことのできた初めての合同礼拝だった。
私たちはひとつの信仰とビジョンを神から与えられているが、顔を合わせて、互いに共有する思いを確認し、それぞれの痛みを分かち合うことができた(と思う)。

合同礼拝は主任牧師のメッセージであった。
さて、聖書のみことばに心を傾けたい。これまで何度も読んできたところである。
学園都市で開拓伝道をはじめようとする思いが起こされたときにもこの箇所を開いた。
もう一度、原点に立ち戻って、初心の気持を考え直したいと思った。
イエスがとある家で、罪の赦しを説き、人の病気を癒しておられたとき、数名の男たちが中風を患っている人を床に乗せてやって来た。そこには、イエスと敵対する律法学者やパリサイ派の人々も居合わせており、イエスを告発する口実を探していた。
そんな律法学者やパリサイ派の理屈をイエスは見抜いていた。
この物語の素晴らしいところは、連れて行かれた中風の男の信仰ではなく、連れて行った数名の男たちの信仰によって救われたという点である。人はうわべだけを見るが、神は心の内側を見る。信仰は目で見えるものではないからである。
私たちが心ひとつにされ、伝道のために駆り立てられるものは何か。
1.「イエスのところに連れて行きさえすれば」という信仰
中風の男を運んできた数名の信仰が立派であったとか、正しかったとか、熱心であったと言っているのではない。病人をイエスのところに連れて行きさえすれば何とかなると思った信仰を言っているのである。そんな単純な信仰をみて、イエスは中風の男を癒されたのである。
私たちの内に、このような信仰があるだろうか。難しい理屈などではない。幼稚かも知れないが、ただただ、イエスがこの男を祝福し救って下さると思う信仰なのである。
2.「何とかしてこの人が救われて欲しい」という愛
イエスのもとに連れて行きさえすれば何とかなるという信仰も大切であるが、これに加えて、中風の男が救われて欲しいという思いも大切である。そんな愛の行為が重要なのである。
数名の男たちは、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったが、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろしたのである。 彼らの行為は常識を越えたものであるが、そこには愛があった。愛の行為は理屈を超えた痛みのある行為である。愛がなければ、理念や方策があったとしても行動することができないのである。
3.「自分もそれに加わります」という献身
愛の深い人は、自分の手足をささげ、自分を遣ってくださいと言う。福音を語る力がなくても、上手く話すことができなくても、愛することができるなら、その一端を担おうとするのである。自分がそれに加わりますという気持が大切であり、求められているのである。私たち自身は弱い者であるが、失われているひとがいるのなら、自ら進んで、イエスのところに連れて行き、愛をもって接したい。
(ルカによる福音書 / 5章 17-26節)
本日は、ニューコミュニティの3つのチャペルが集うことのできた初めての合同礼拝だった。
私たちはひとつの信仰とビジョンを神から与えられているが、顔を合わせて、互いに共有する思いを確認し、それぞれの痛みを分かち合うことができた(と思う)。

合同礼拝は主任牧師のメッセージであった。
さて、聖書のみことばに心を傾けたい。これまで何度も読んできたところである。
学園都市で開拓伝道をはじめようとする思いが起こされたときにもこの箇所を開いた。
もう一度、原点に立ち戻って、初心の気持を考え直したいと思った。
イエスがとある家で、罪の赦しを説き、人の病気を癒しておられたとき、数名の男たちが中風を患っている人を床に乗せてやって来た。そこには、イエスと敵対する律法学者やパリサイ派の人々も居合わせており、イエスを告発する口実を探していた。
そんな律法学者やパリサイ派の理屈をイエスは見抜いていた。
この物語の素晴らしいところは、連れて行かれた中風の男の信仰ではなく、連れて行った数名の男たちの信仰によって救われたという点である。人はうわべだけを見るが、神は心の内側を見る。信仰は目で見えるものではないからである。
私たちが心ひとつにされ、伝道のために駆り立てられるものは何か。
1.「イエスのところに連れて行きさえすれば」という信仰
中風の男を運んできた数名の信仰が立派であったとか、正しかったとか、熱心であったと言っているのではない。病人をイエスのところに連れて行きさえすれば何とかなると思った信仰を言っているのである。そんな単純な信仰をみて、イエスは中風の男を癒されたのである。
私たちの内に、このような信仰があるだろうか。難しい理屈などではない。幼稚かも知れないが、ただただ、イエスがこの男を祝福し救って下さると思う信仰なのである。
2.「何とかしてこの人が救われて欲しい」という愛
イエスのもとに連れて行きさえすれば何とかなるという信仰も大切であるが、これに加えて、中風の男が救われて欲しいという思いも大切である。そんな愛の行為が重要なのである。
数名の男たちは、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったが、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろしたのである。 彼らの行為は常識を越えたものであるが、そこには愛があった。愛の行為は理屈を超えた痛みのある行為である。愛がなければ、理念や方策があったとしても行動することができないのである。
3.「自分もそれに加わります」という献身
愛の深い人は、自分の手足をささげ、自分を遣ってくださいと言う。福音を語る力がなくても、上手く話すことができなくても、愛することができるなら、その一端を担おうとするのである。自分がそれに加わりますという気持が大切であり、求められているのである。私たち自身は弱い者であるが、失われているひとがいるのなら、自ら進んで、イエスのところに連れて行き、愛をもって接したい。
『私たちを動かすものは何か』
(ルカによる福音書 / 5章 17-26節)
本日は、ニューコミュニティの3つのチャペルが集うことのできた初めての合同礼拝だった。
私たちはひとつの信仰とビジョンを神から与えられているが、顔を合わせて、互いに共有する思いを確認し、それぞれの痛みを分かち合うことができた(と思う)。

合同礼拝は主任牧師のメッセージであった。
さて、聖書のみことばに心を傾けたい。これまで何度も読んできたところである。
学園都市で開拓伝道をはじめようとする思いが起こされたときにもこの箇所を開いた。
もう一度、原点に立ち戻って、初心の気持を考え直したいと思った。
イエスがとある家で、罪の赦しを説き、人の病気を癒しておられたとき、数名の男たちが中風を患っている人を床に乗せてやって来た。そこには、イエスと敵対する律法学者やパリサイ派の人々も居合わせており、イエスを告発する口実を探していた。
そんな律法学者やパリサイ派の理屈をイエスは見抜いていた。
この物語の素晴らしいところは、連れて行かれた中風の男の信仰ではなく、連れて行った数名の男たちの信仰によって救われたという点である。人はうわべだけを見るが、神は心の内側を見る。信仰は目で見えるものではないからである。
私たちが心ひとつにされ、伝道のために駆り立てられるものは何か。
1.「イエスのところに連れて行きさえすれば」という信仰
中風の男を運んできた数名の信仰が立派であったとか、正しかったとか、熱心であったと言っているのではない。病人をイエスのところに連れて行きさえすれば何とかなると思った信仰を言っているのである。そんな単純な信仰をみて、イエスは中風の男を癒されたのである。
私たちの内に、このような信仰があるだろうか。難しい理屈などではない。幼稚かも知れないが、ただただ、イエスがこの男を祝福し救って下さると思う信仰なのである。
2.「何とかしてこの人が救われて欲しい」という愛
イエスのもとに連れて行きさえすれば何とかなるという信仰も大切であるが、これに加えて、中風の男が救われて欲しいという思いも大切である。そんな愛の行為が重要なのである。
数名の男たちは、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったが、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろしたのである。 彼らの行為は常識を越えたものであるが、そこには愛があった。愛の行為は理屈を超えた痛みのある行為である。愛がなければ、理念や方策があったとしても行動することができないのである。
3.「自分もそれに加わります」という献身
愛の深い人は、自分の手足をささげ、自分を遣ってくださいと言う。福音を語る力がなくても、上手く話すことができなくても、愛することができるなら、その一端を担おうとするのである。自分がそれに加わりますという気持が大切であり、求められているのである。私たち自身は弱い者であるが、失われているひとがいるのなら、自ら進んで、イエスのところに連れて行き、愛をもって接したい。
(ルカによる福音書 / 5章 17-26節)
本日は、ニューコミュニティの3つのチャペルが集うことのできた初めての合同礼拝だった。
私たちはひとつの信仰とビジョンを神から与えられているが、顔を合わせて、互いに共有する思いを確認し、それぞれの痛みを分かち合うことができた(と思う)。

合同礼拝は主任牧師のメッセージであった。
さて、聖書のみことばに心を傾けたい。これまで何度も読んできたところである。
学園都市で開拓伝道をはじめようとする思いが起こされたときにもこの箇所を開いた。
もう一度、原点に立ち戻って、初心の気持を考え直したいと思った。
イエスがとある家で、罪の赦しを説き、人の病気を癒しておられたとき、数名の男たちが中風を患っている人を床に乗せてやって来た。そこには、イエスと敵対する律法学者やパリサイ派の人々も居合わせており、イエスを告発する口実を探していた。
そんな律法学者やパリサイ派の理屈をイエスは見抜いていた。
この物語の素晴らしいところは、連れて行かれた中風の男の信仰ではなく、連れて行った数名の男たちの信仰によって救われたという点である。人はうわべだけを見るが、神は心の内側を見る。信仰は目で見えるものではないからである。
私たちが心ひとつにされ、伝道のために駆り立てられるものは何か。
1.「イエスのところに連れて行きさえすれば」という信仰
中風の男を運んできた数名の信仰が立派であったとか、正しかったとか、熱心であったと言っているのではない。病人をイエスのところに連れて行きさえすれば何とかなると思った信仰を言っているのである。そんな単純な信仰をみて、イエスは中風の男を癒されたのである。
私たちの内に、このような信仰があるだろうか。難しい理屈などではない。幼稚かも知れないが、ただただ、イエスがこの男を祝福し救って下さると思う信仰なのである。
2.「何とかしてこの人が救われて欲しい」という愛
イエスのもとに連れて行きさえすれば何とかなるという信仰も大切であるが、これに加えて、中風の男が救われて欲しいという思いも大切である。そんな愛の行為が重要なのである。
数名の男たちは、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったが、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろしたのである。 彼らの行為は常識を越えたものであるが、そこには愛があった。愛の行為は理屈を超えた痛みのある行為である。愛がなければ、理念や方策があったとしても行動することができないのである。
3.「自分もそれに加わります」という献身
愛の深い人は、自分の手足をささげ、自分を遣ってくださいと言う。福音を語る力がなくても、上手く話すことができなくても、愛することができるなら、その一端を担おうとするのである。自分がそれに加わりますという気持が大切であり、求められているのである。私たち自身は弱い者であるが、失われているひとがいるのなら、自ら進んで、イエスのところに連れて行き、愛をもって接したい。
来週の土曜日から月曜日まで、姉妹教会である韓国釜山の草邑教会の100周年記念礼拝へ、教会を代表して訪問する予定である。釜山は全く初めてである。
韓国へは、1998年10月にソウル、2001年11月に済州(チェジュ)島に行って以来のことである。記憶は定かでないが、当時の円に対する韓国ウォンの為替レートは、100KRW=10円(実際には10円を切っていた)くらいだったと記憶する。昨日付の同為替レートを調べたところ、
100円=8円くらいだった。
ソウルに行ったその当時、仁川国際空港はまだ開港しておらず、金浦国際空港に降り立った。チェジュ島のときは済州国際空港だったと思う。さて、今回は何空港だろうか?
当然のことながら、今回の旅行も妻任せ、何の情報も把握していない。
日程だけようやく知った次第である。
11/21(土)関西国際空港11:50発 釜山13:20着(アシアナ航空OZ143)
11/23(月)釜山9:30発 関西国際空港10:50着(アシアナ航空OZ144)
韓国へは、1998年10月にソウル、2001年11月に済州(チェジュ)島に行って以来のことである。記憶は定かでないが、当時の円に対する韓国ウォンの為替レートは、100KRW=10円(実際には10円を切っていた)くらいだったと記憶する。昨日付の同為替レートを調べたところ、
100円=8円くらいだった。
ソウルに行ったその当時、仁川国際空港はまだ開港しておらず、金浦国際空港に降り立った。チェジュ島のときは済州国際空港だったと思う。さて、今回は何空港だろうか?
当然のことながら、今回の旅行も妻任せ、何の情報も把握していない。
日程だけようやく知った次第である。
11/21(土)関西国際空港11:50発 釜山13:20着(アシアナ航空OZ143)
11/23(月)釜山9:30発 関西国際空港10:50着(アシアナ航空OZ144)
昨日のブログで、Eric Clapton の"Tears In Heaven"の一部を紹介した。
この曲の歌詞には、幼子を事故で失った父親の悲しい気持が綴られており、息子を死なせたという自責の念が伺われる。歌詞の一部を読んだだけでは、彼の真意をはかりかねるので、一様に言うことはできないのだが…
さて、ガラテヤという小アジアの諸教会宛に書いたパウロの手紙の中に、「私が生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰による」とある。
すなわち、私たちは、自分の力で生きているのではなく、主の愛と憐れみによって生かされているのである。
この曲の歌詞には、幼子を事故で失った父親の悲しい気持が綴られており、息子を死なせたという自責の念が伺われる。歌詞の一部を読んだだけでは、彼の真意をはかりかねるので、一様に言うことはできないのだが…
さて、ガラテヤという小アジアの諸教会宛に書いたパウロの手紙の中に、「私が生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰による」とある。
すなわち、私たちは、自分の力で生きているのではなく、主の愛と憐れみによって生かされているのである。
Eric Clapton の楽曲である。
Would you know my name if I saw you in heaven?
Would it be the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on
'cause I know I don't belong here in heaven
天国で逢えたなら、お前は私の名前を覚えているだろうか?
もし天国で逢えたなら、(昔と)同じ気持でいてくれるだろうか?
お父さんは強くなければならないし、生き続けなければならない。
なぜならば、お父さんはここ(天国)にいるには相応しくないと思っているから…
Would you know my name if I saw you in heaven?
Would it be the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on
'cause I know I don't belong here in heaven
天国で逢えたなら、お前は私の名前を覚えているだろうか?
もし天国で逢えたなら、(昔と)同じ気持でいてくれるだろうか?
お父さんは強くなければならないし、生き続けなければならない。
なぜならば、お父さんはここ(天国)にいるには相応しくないと思っているから…
新型インフルエンザ(A/H1N1)が春に確認されて以来、日本国内で本格的な流行を迎えているようである。身近でも子どもの通っているクラスや学年が閉鎖されている話を耳にする。
先日、冬に流行する従来型の季節性インフルエンザの予防接種を受けてきたばかりであるが、季節性のそれと違って、大半の人が新型のウイルスに抵抗する免疫を持っていないので、当然に感染が拡大しやすいとのことである。
一方で、ワクチンが不足しているようである。供給量が限られているので、すべての人に、同時にワクチン接種を行うことはできないというのが厚生労働省の弁明である。
厚生労働省のホームページを見ると、「新型インフルエンザワクチンの優先接種の対象とする基礎疾患の基準」というガイドラインが示されている。ガイドラインによると、「国内外の事例において、基礎疾患を有する者について入院数や重症化率、死亡率が高いことが確認されており、新型インフルエンザのリスクが高いことが示唆されている。WHOなどにおいて報告されているハイリスクグループおよび国内で発症した患者の基礎疾患等総合的に勘案し、下記の疾患・状態で入院中又は通院中の者を新型インフルエンザワクチンの優先接種の対象とする。」と書いてある。役人のわかりにくい独特の言い回しであるが、つまり、一定の条件を満たす基礎疾患者は、優先して接種を受けることができる。という基準が示されているのである。この優先接種の対象者の中には糖尿病も含まれており、その中でも、妊婦・小児、併発症のある者。又はインスリン及び経口糖尿病薬による治療を必要とする者という条件が但し書きで付されていた。糖尿病患者は、血糖値が正常な人に比べて、高血糖の状態では白血球の働きが低下し、抗体をつくる免疫反応が弱まっているため、一度感染してしまうと、インフルエンザの症状が長引き治りにくく、さらに、肺炎などを併発して重症になる可能性が高い。
ということで、上記の条件を満たしており、新型インフルエンザ用のワクチン接種の予約をしているところであるが、順番が回ってくるのはいつのことだろうか。他の基礎疾患を有する人たちがたくさんおられるので、仮に、自分に順番が回ってきたとしても、諸手を挙げて喜ぶことはできない。
先日、冬に流行する従来型の季節性インフルエンザの予防接種を受けてきたばかりであるが、季節性のそれと違って、大半の人が新型のウイルスに抵抗する免疫を持っていないので、当然に感染が拡大しやすいとのことである。
一方で、ワクチンが不足しているようである。供給量が限られているので、すべての人に、同時にワクチン接種を行うことはできないというのが厚生労働省の弁明である。
厚生労働省のホームページを見ると、「新型インフルエンザワクチンの優先接種の対象とする基礎疾患の基準」というガイドラインが示されている。ガイドラインによると、「国内外の事例において、基礎疾患を有する者について入院数や重症化率、死亡率が高いことが確認されており、新型インフルエンザのリスクが高いことが示唆されている。WHOなどにおいて報告されているハイリスクグループおよび国内で発症した患者の基礎疾患等総合的に勘案し、下記の疾患・状態で入院中又は通院中の者を新型インフルエンザワクチンの優先接種の対象とする。」と書いてある。役人のわかりにくい独特の言い回しであるが、つまり、一定の条件を満たす基礎疾患者は、優先して接種を受けることができる。という基準が示されているのである。この優先接種の対象者の中には糖尿病も含まれており、その中でも、妊婦・小児、併発症のある者。又はインスリン及び経口糖尿病薬による治療を必要とする者という条件が但し書きで付されていた。糖尿病患者は、血糖値が正常な人に比べて、高血糖の状態では白血球の働きが低下し、抗体をつくる免疫反応が弱まっているため、一度感染してしまうと、インフルエンザの症状が長引き治りにくく、さらに、肺炎などを併発して重症になる可能性が高い。
ということで、上記の条件を満たしており、新型インフルエンザ用のワクチン接種の予約をしているところであるが、順番が回ってくるのはいつのことだろうか。他の基礎疾患を有する人たちがたくさんおられるので、仮に、自分に順番が回ってきたとしても、諸手を挙げて喜ぶことはできない。
昨年、源氏物語千年紀を迎えたということで、十数冊の関連書籍を書店で買い込み、一気に読破したと思っていたところ、本棚を漁っていると、まだ読んでいなかった一冊を発見した。田辺聖子著の「新源氏物語」の"下巻"である。
源氏物語は、光源氏を主人公にして、源氏の恋愛遍歴を展開している平安中期の長編小説である。54帖からなるこの大物語は、諸説はあるが、光源氏のおかれている立場や時代により、幾つかの部分に分かれて構成されている。田辺聖子の"下巻"は、32帖の「梅枝」の巻、源氏39歳春からはじまっている。
源氏物語は、複雑な人間関係のゆえ、相関関係を図に示さなければ相当分かりにくい。"上巻"から読むのなら兎も角、"下巻"からだったので、誰と誰が結ばれて、誰の子と誰の子が婚姻関係にあったかなど、これまでの経緯(いきさつ)をかなり忘れていた。一時期に結構読み込んでいた筈なのだが…読んでいるうちに次第に思い出してきた。
源氏物語は、光源氏を主人公にして、源氏の恋愛遍歴を展開している平安中期の長編小説である。54帖からなるこの大物語は、諸説はあるが、光源氏のおかれている立場や時代により、幾つかの部分に分かれて構成されている。田辺聖子の"下巻"は、32帖の「梅枝」の巻、源氏39歳春からはじまっている。
源氏物語は、複雑な人間関係のゆえ、相関関係を図に示さなければ相当分かりにくい。"上巻"から読むのなら兎も角、"下巻"からだったので、誰と誰が結ばれて、誰の子と誰の子が婚姻関係にあったかなど、これまでの経緯(いきさつ)をかなり忘れていた。一時期に結構読み込んでいた筈なのだが…読んでいるうちに次第に思い出してきた。
歌手の胡美芳さん死去のニュース
11月9日13時36分配信 時事通信
胡美芳さんは、ゴスペルシンガーの草分け的存在である。
彼女は、キリスト教に入信して以来、各地の教会などを巡回し、伝道活動を行っていた。
臆することなく誰とでも友だちになる私の母が、ある日、胡美芳さんと友だちになったと宣っていた。どこかのコンサートで胡美芳さんと出逢ったと言う。母は、知り合いになったつもりでいるかも知れないが、その真偽の程は定かでない。その後、母は、胡美芳さんと中国を旅行すると言って、チャイナドレスを誂えていたが、天安門事件が起こったために、結局、中国に行く機会を逸してしまった。未だにそのチャイナドレスも日の目を見ていない。

胡美芳さんのサイン入りの聖書があったことを思い出し、本棚から探し出した。
11月9日13時36分配信 時事通信
胡美芳さんは、ゴスペルシンガーの草分け的存在である。
彼女は、キリスト教に入信して以来、各地の教会などを巡回し、伝道活動を行っていた。
臆することなく誰とでも友だちになる私の母が、ある日、胡美芳さんと友だちになったと宣っていた。どこかのコンサートで胡美芳さんと出逢ったと言う。母は、知り合いになったつもりでいるかも知れないが、その真偽の程は定かでない。その後、母は、胡美芳さんと中国を旅行すると言って、チャイナドレスを誂えていたが、天安門事件が起こったために、結局、中国に行く機会を逸してしまった。未だにそのチャイナドレスも日の目を見ていない。

胡美芳さんのサイン入りの聖書があったことを思い出し、本棚から探し出した。
『More than a best friend』
ルカによる福音書 / 11章5~13節
本日の礼拝は、"Joyful club worship service" であった。
"Joyful club"とは、教会の英会話クラスのことである。今日の礼拝は、英会話クラスのスタッフの奉仕により導かれた。
礼拝メッセージは、"Joyful club"で英会話を教えている Randy Fuchigami 先生。彼は、アメリカの英語教育の専門家である。言わば、アメリカの国語の先生である。
今日のメッセージは、「relationship」についてである。
「relationship」と言えば、「関係」「結び付き」「かかわり合い」と訳されるが、ここでは、友だちや親、神様との間の関係を指す。
創世記では、神はこの世界とすべてのものを創造されたとあり、神の創られたすべてのものは素晴らしいものであり、創造されたものを神自身も喜ばれた。天と地、昼と夜、太陽や月星、大空と海、地には種を持つ草と実をつける果樹、生き物、すべての自然を創られ、命を与えられた。そして、男と女を創造され、神が創られたものは甚だ良かったとある。
神は、アダムとイブに必要なものすべてを与えられた。過ごすための素晴らしい場所、たくさんの食べもの、そして、 彼らが生きるための目的と使命を与えられた。アダムとイブが神に敵対したときでさえも、神は彼らの必要なものを与えられた。神は、崩壊したアダムとイブとの関係を修復しようとなされた。神は、昨日も今日も変わらない同じ神であり、同じ愛をもって、私たちに命を与えておられるのである。
聖書の中に、弟子の一人が「祈り」とはどういうものかイエスに尋ねている場面があるが、この場面で、イエスは、神と人との関係を説き、祈りのモデルとして、「主の祈り」を教えている。
祈りとは、神との人格的な交わりをするときのコミュニケーションであり、神との関係を築くときに大変重要なものである。この「主の祈り」は世界中の多くの教会で行われている祈祷であり、この中に、神に祈るときの方法が込められている。
ACTS with God
A = acknowledge & Adore :認める、受け入れる
C = confess :悔い改める、罪を告白する
T = thanks :感謝する
S = seek :捜し求める、追求する
イエスは弟子たちに、「主の祈り」について教え、「3つのパン」の譬えを話された。
話は、真夜中に旅行中の友人が訪ねて来くるところからはじまる。訪問されたのは良いのだが、生憎く家には食べるものがない(もちろん当時はセブンイレブンもローソンもなかった)。そこで、近所の友だちのところにパンを借りに行くのであるが、そこの主人(友人)は、夜も遅いので、面倒をかけないでくれと言う。もう戸は閉めてしまったし、子どもたちも私のそばで寝ている。いま起きて何もあげることはできないと断るのである。しかし、その男は、なおも玄関のドアをたたき続けて、執拗に求めるのである。主人は彼の熱心さには根負けしてしまい、パンを与えるのである。
この譬えのポイントは、熱心な求めが友人の心を動かしたところにある。ましてや天の父なる神ならば尚更である。イエスは、積極的に祈ることの大切さを教えているのである。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9-10)
神は、私たちが主体的に熱心に祈ることを望んでおられるのであり、そのような祈りをする者に必ず応え、報いてくださるのである。
ルカによる福音書 / 11章5~13節
本日の礼拝は、"Joyful club worship service" であった。
"Joyful club"とは、教会の英会話クラスのことである。今日の礼拝は、英会話クラスのスタッフの奉仕により導かれた。
礼拝メッセージは、"Joyful club"で英会話を教えている Randy Fuchigami 先生。彼は、アメリカの英語教育の専門家である。言わば、アメリカの国語の先生である。
今日のメッセージは、「relationship」についてである。
「relationship」と言えば、「関係」「結び付き」「かかわり合い」と訳されるが、ここでは、友だちや親、神様との間の関係を指す。
創世記では、神はこの世界とすべてのものを創造されたとあり、神の創られたすべてのものは素晴らしいものであり、創造されたものを神自身も喜ばれた。天と地、昼と夜、太陽や月星、大空と海、地には種を持つ草と実をつける果樹、生き物、すべての自然を創られ、命を与えられた。そして、男と女を創造され、神が創られたものは甚だ良かったとある。
神は、アダムとイブに必要なものすべてを与えられた。過ごすための素晴らしい場所、たくさんの食べもの、そして、 彼らが生きるための目的と使命を与えられた。アダムとイブが神に敵対したときでさえも、神は彼らの必要なものを与えられた。神は、崩壊したアダムとイブとの関係を修復しようとなされた。神は、昨日も今日も変わらない同じ神であり、同じ愛をもって、私たちに命を与えておられるのである。
聖書の中に、弟子の一人が「祈り」とはどういうものかイエスに尋ねている場面があるが、この場面で、イエスは、神と人との関係を説き、祈りのモデルとして、「主の祈り」を教えている。
祈りとは、神との人格的な交わりをするときのコミュニケーションであり、神との関係を築くときに大変重要なものである。この「主の祈り」は世界中の多くの教会で行われている祈祷であり、この中に、神に祈るときの方法が込められている。
ACTS with God
A = acknowledge & Adore :認める、受け入れる
C = confess :悔い改める、罪を告白する
T = thanks :感謝する
S = seek :捜し求める、追求する
イエスは弟子たちに、「主の祈り」について教え、「3つのパン」の譬えを話された。
話は、真夜中に旅行中の友人が訪ねて来くるところからはじまる。訪問されたのは良いのだが、生憎く家には食べるものがない(もちろん当時はセブンイレブンもローソンもなかった)。そこで、近所の友だちのところにパンを借りに行くのであるが、そこの主人(友人)は、夜も遅いので、面倒をかけないでくれと言う。もう戸は閉めてしまったし、子どもたちも私のそばで寝ている。いま起きて何もあげることはできないと断るのである。しかし、その男は、なおも玄関のドアをたたき続けて、執拗に求めるのである。主人は彼の熱心さには根負けしてしまい、パンを与えるのである。
この譬えのポイントは、熱心な求めが友人の心を動かしたところにある。ましてや天の父なる神ならば尚更である。イエスは、積極的に祈ることの大切さを教えているのである。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9-10)
神は、私たちが主体的に熱心に祈ることを望んでおられるのであり、そのような祈りをする者に必ず応え、報いてくださるのである。
本日は11月の治療日だった。
いつもの通り、まずは採血をして、体重測定、血圧測定、血糖値測定などを行った。
体重:[72.70]kg
血圧:[138/84]mmHg
血糖値(食後2.5h):[203]mg/dl
ヘモグロビンA1c:[6.5]%(前月の精密数値[6.2]%)
今朝の朝食チェック
ハムサンド、グリーンサラダ、ミネラルウォーター
主治医によると、小腸から分泌される消化管ホルモンが、最近の糖尿病の治療薬として注目されているらしい。日本でも、厚生労働省の承認申請をするべく治験中とのことであり、来年くらいには承認されて使用できるようになるのではないかとのことである。
一般的な糖尿病治療は、膵臓からのインスリンの分泌を促し、インスリンの効きをよくさせることが主流であったそうであるが、小腸から分泌されるこの消化管ホルモンもインスリンと同じ作用をするとのこと。そればかりか、脳に作用して食欲を抑制し、胃に作用して消化を遅らせるとのことである。難点は、体内に存在するこの消化管ホルモンはすぐに分解されてしまうので、治療薬としては容易には取り上げられなかったとのことである。
体内ですぐに分解されてしまうということは、素人考えかもしれないが、それ自体を生体が受け付けないということではないのだろうか。
いつもの通り、まずは採血をして、体重測定、血圧測定、血糖値測定などを行った。
体重:[72.70]kg
血圧:[138/84]mmHg
血糖値(食後2.5h):[203]mg/dl
ヘモグロビンA1c:[6.5]%(前月の精密数値[6.2]%)
今朝の朝食チェック
ハムサンド、グリーンサラダ、ミネラルウォーター
主治医によると、小腸から分泌される消化管ホルモンが、最近の糖尿病の治療薬として注目されているらしい。日本でも、厚生労働省の承認申請をするべく治験中とのことであり、来年くらいには承認されて使用できるようになるのではないかとのことである。
一般的な糖尿病治療は、膵臓からのインスリンの分泌を促し、インスリンの効きをよくさせることが主流であったそうであるが、小腸から分泌されるこの消化管ホルモンもインスリンと同じ作用をするとのこと。そればかりか、脳に作用して食欲を抑制し、胃に作用して消化を遅らせるとのことである。難点は、体内に存在するこの消化管ホルモンはすぐに分解されてしまうので、治療薬としては容易には取り上げられなかったとのことである。
体内ですぐに分解されてしまうということは、素人考えかもしれないが、それ自体を生体が受け付けないということではないのだろうか。
……
なんにも書く気が起こらない。
偶には、こんなかたちで更新するものありか
なんにも書く気が起こらない。
偶には、こんなかたちで更新するものありか
賀川豊彦が青年時代に親友に送ったはがき38枚が、芦屋市の女性宅から見つかった。
というニュース【神戸新聞 2009/11/05】
賀川豊彦は、日本の労働運動・社会運動家の草分け的な存在であり、キリスト教伝道者として、その生涯を捧げた人物である。子どもの頃に、賀川豊彦の伝記を読んだことがあるが、彼は、神戸の貧しい人たちが多く集まり住む町に移り住み、宣教と救済活動に努め、今でこそあまり見かけなくなったが、路傍に立ち、キリスト教の教えを説いたとのことである。私の造語だが、今風に言えば、Street mission か Roadside mission と言ったところであろう。
賀川豊彦は、労働者の生活安定のために、消費生活協同組合(現在の「生活協同組合コープこうべ」の前身である灘購買組合)の創設にも参画した。私の子どもの頃には、すでに灘神戸生活協同組合という名に改称されていたが、私の住んでいた芦屋では、「くみあいマーケット」という看板が掲げられており、地元では、「くみあいさん」という愛称で親しまれていた。
「くみあいさん」の商品には、賀川豊彦の社会運動家としての助け合いの精神からだろうか、「一人は万人のために、万人は一人のために」という標語が印刷されていた。
「くみあいさん」に行くと、無漂白の「コープブレッド?」というパンが焼きたての好い匂いをさせており、必ず、そのパンを買ったものである。嗚呼、あの匂いと味が懐かしい。
というニュース【神戸新聞 2009/11/05】
賀川豊彦は、日本の労働運動・社会運動家の草分け的な存在であり、キリスト教伝道者として、その生涯を捧げた人物である。子どもの頃に、賀川豊彦の伝記を読んだことがあるが、彼は、神戸の貧しい人たちが多く集まり住む町に移り住み、宣教と救済活動に努め、今でこそあまり見かけなくなったが、路傍に立ち、キリスト教の教えを説いたとのことである。私の造語だが、今風に言えば、Street mission か Roadside mission と言ったところであろう。
賀川豊彦は、労働者の生活安定のために、消費生活協同組合(現在の「生活協同組合コープこうべ」の前身である灘購買組合)の創設にも参画した。私の子どもの頃には、すでに灘神戸生活協同組合という名に改称されていたが、私の住んでいた芦屋では、「くみあいマーケット」という看板が掲げられており、地元では、「くみあいさん」という愛称で親しまれていた。
「くみあいさん」の商品には、賀川豊彦の社会運動家としての助け合いの精神からだろうか、「一人は万人のために、万人は一人のために」という標語が印刷されていた。
「くみあいさん」に行くと、無漂白の「コープブレッド?」というパンが焼きたての好い匂いをさせており、必ず、そのパンを買ったものである。嗚呼、あの匂いと味が懐かしい。
大学入試の合格発表のときに驚いたのは、学生のアジテーションだった。
大学の正門前で、白いヘルメットにタオルで口を覆った学生が、マイクをもって演説していた。在校生が新入部員の勧誘チラシや予備校が試験問題の解答などを配布しているのはよくある光景であるが、抑揚のある声で何かを訴えている光景は異様だった。
学内には、「立て看」と呼ばれる看板が乱立しており、どこかの音楽サークルの演奏会の告知であったり、体育会の入部の勧誘もあったが、一際目立ったのが、、特殊な字体と言葉を用いて、情緒を煽り立てるように書かれていた政治的主張の立て看だった。闘争・弾劾・粉砕・実力阻止・断固反対・連帯・許すな・結集せよ等々である。さまざまな政治的主張が展開されていたが、「三里塚闘争」や「沖縄闘争」という用語がよく使われていた。成田空港開設反対運動や沖縄米軍基地問題がそれである。
成田空港では開港30年以上も経過してB滑走路が使用できるようになり、沖縄の基地問題では、在普天間飛行場の返還問題と辺野古地区への移設問題が取沙汰されている。
大学の正門前で、白いヘルメットにタオルで口を覆った学生が、マイクをもって演説していた。在校生が新入部員の勧誘チラシや予備校が試験問題の解答などを配布しているのはよくある光景であるが、抑揚のある声で何かを訴えている光景は異様だった。
学内には、「立て看」と呼ばれる看板が乱立しており、どこかの音楽サークルの演奏会の告知であったり、体育会の入部の勧誘もあったが、一際目立ったのが、、特殊な字体と言葉を用いて、情緒を煽り立てるように書かれていた政治的主張の立て看だった。闘争・弾劾・粉砕・実力阻止・断固反対・連帯・許すな・結集せよ等々である。さまざまな政治的主張が展開されていたが、「三里塚闘争」や「沖縄闘争」という用語がよく使われていた。成田空港開設反対運動や沖縄米軍基地問題がそれである。
成田空港では開港30年以上も経過してB滑走路が使用できるようになり、沖縄の基地問題では、在普天間飛行場の返還問題と辺野古地区への移設問題が取沙汰されている。
『礼拝が生きれば人生が生きる』
-キリストの福音に生きる(40)-
(ローマ書12章1-2節)
私たちの捧げる礼拝は、私たちの人生に祝福をもたらす
1.神が私を愛しておられることを知ることができるからである
私たちは、神の豊かな愛に包まれており、この世のどんなものによっても、神の愛から引き離されることはない とパウロは語っている。私たちが神を愛したからではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、神の愛する御子イエス・キリストを用意してくださったからである。これにより、神の愛が明らかにされているのである。
からだを捧げなさいとあるが、肉体は、自由な霊的活動を束縛し、霊的なものと相対するものと思われがちである。しかし、私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮であり、もはや自分自身のものではないのである。私たちは、神に自らを捧げることによって、神の愛を知るのであり、神の愛を知ることによって、私たちも愛する者に変えられるのである。
2.「この世」に自分を従わせることから守られるからである
信仰とは、神との間の関係であるはずだが、現実は、「この世」との間の関係に陥っている。
聖書によると、「この世」とは、「神の国」に属さない国の総称であり、「神の国」と違う価値観、考え方、力があるという。だからパウロは、そんな力の持った「この世」と調子を合わせてはならず、妥協してはいけないと説く。「この世」の生き方に従ってはならないというのである。
私たちは、これまで、「この世」の力に生かされていた者であったが、今は、主イエス・キリストとの出逢いによって生かされている。とは言え、私たちは、しばしば、「この世」と敵対すると言いつつ、この世に倣って生きている。しかし、イエス・キリストは、「この世」と敵対することも、妥協することもしなかった。イエス・キリストは、弟子たちに対し、悪しき者の攻撃から守ってくれるように神に祈った。私たちは、「この世」と敵対する悪の力に対し、自分の力で闘うことはできない。神の臨在に触れ、助けを求めなければならないのである。
「この世」にあって、神の愛に満たされ、神の愛に感化されることが、私たちの務めであり、それは神を礼拝することによって与えられるのである。
3.「神のみこころ」を求めて自分を変えることができるからである
パウロの語っている自分を変えることとは、外形的な変化を言っているのではない。キリストによって内的な心を一新させることを言っているのである。私たちは、悔い改めによって、自己中心の生活からキリスト中心の生活に生きるのであり、それが、キリスト者として神に喜ばれる生き方なのである。キリストが人生の中心になるとき、私たちは、真の礼拝を捧げることができるのである。真の礼拝とは教会や礼拝堂でなされるものだけを意味するのではない。受肉したからだは聖霊の宮であり、聖霊の働くところで、霊的礼拝を捧げることができるのである。
神のみを愛して生きること、神とともに生きる素晴らしい人生。そんな愛に生き続けることができるように願うものである。
-完-
-キリストの福音に生きる(40)-
(ローマ書12章1-2節)
私たちの捧げる礼拝は、私たちの人生に祝福をもたらす
1.神が私を愛しておられることを知ることができるからである
私たちは、神の豊かな愛に包まれており、この世のどんなものによっても、神の愛から引き離されることはない とパウロは語っている。私たちが神を愛したからではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、神の愛する御子イエス・キリストを用意してくださったからである。これにより、神の愛が明らかにされているのである。
からだを捧げなさいとあるが、肉体は、自由な霊的活動を束縛し、霊的なものと相対するものと思われがちである。しかし、私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮であり、もはや自分自身のものではないのである。私たちは、神に自らを捧げることによって、神の愛を知るのであり、神の愛を知ることによって、私たちも愛する者に変えられるのである。
2.「この世」に自分を従わせることから守られるからである
信仰とは、神との間の関係であるはずだが、現実は、「この世」との間の関係に陥っている。
聖書によると、「この世」とは、「神の国」に属さない国の総称であり、「神の国」と違う価値観、考え方、力があるという。だからパウロは、そんな力の持った「この世」と調子を合わせてはならず、妥協してはいけないと説く。「この世」の生き方に従ってはならないというのである。
私たちは、これまで、「この世」の力に生かされていた者であったが、今は、主イエス・キリストとの出逢いによって生かされている。とは言え、私たちは、しばしば、「この世」と敵対すると言いつつ、この世に倣って生きている。しかし、イエス・キリストは、「この世」と敵対することも、妥協することもしなかった。イエス・キリストは、弟子たちに対し、悪しき者の攻撃から守ってくれるように神に祈った。私たちは、「この世」と敵対する悪の力に対し、自分の力で闘うことはできない。神の臨在に触れ、助けを求めなければならないのである。
「この世」にあって、神の愛に満たされ、神の愛に感化されることが、私たちの務めであり、それは神を礼拝することによって与えられるのである。
3.「神のみこころ」を求めて自分を変えることができるからである
パウロの語っている自分を変えることとは、外形的な変化を言っているのではない。キリストによって内的な心を一新させることを言っているのである。私たちは、悔い改めによって、自己中心の生活からキリスト中心の生活に生きるのであり、それが、キリスト者として神に喜ばれる生き方なのである。キリストが人生の中心になるとき、私たちは、真の礼拝を捧げることができるのである。真の礼拝とは教会や礼拝堂でなされるものだけを意味するのではない。受肉したからだは聖霊の宮であり、聖霊の働くところで、霊的礼拝を捧げることができるのである。
神のみを愛して生きること、神とともに生きる素晴らしい人生。そんな愛に生き続けることができるように願うものである。
-完-