2011/08/28
Summary(11/08/28)
8月28日主日礼拝「招待されている人と、食卓に着く人と」(神の国のたとえ①)
ルカの福音書14章15~24節
今回から5回にわたり、「神の国のたとえ」というテーマで新しいシリーズが始まる。
新約聖書のたとえ話は大部分がイエスのものである。イエスはたとえ話のスペシャリストである。今回のシリーズでは、イエスのたとえ話の中から、五つを取り上げる。
イエスは、神の国の奥義を教えるために、当時の様々な出来事を題材として、いくつかのたとえを用いて語られた。今朝は、「盛大な晩餐会」のたとえを通して、神の国の奥義について学ぶ。
あるパリサイ派の指導者がイエスを食事に招待したが、その日は安息日であった。そして、イエスといっしょに食卓についた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。ユダヤ人らはメシア(救世主)の到来を待ち望んでいたわけであり、来るべき神が催すの大宴会の日には、選ばれた自分たちが当然に招かれるものと確信していた。だから、神の国で食事に招かれる自分たちは幸いであると言えることができたのである。その話を聞いてイエスが話されたのが、次のたとえ話である。
"ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。” 16-17
ある人とは神のことである。宴会は、来るべき神の日のことである。当時のパレスチナでは、宴会の開催日はかなり前から知らされていたが、開催時刻は知らされていなかった。準備万端整って、宴会の当日になると、あらかじめ招待していた人のところへ案内の者が遣わされ、招待客を招集してまわるのであるが、当日になって出席に差し支える者が現れ、招待に応じておきながら、理由を述べて出席を断る者が出てくるのである。すなわち、神の到来が現実のものになったにもかかわらず、そのときになって、招待を拒絶する者が現れたのである。
すると主人は、宴会の席がたくさん余っているので、町の広場や路地にいる、招待されていたかった人をここに連れて来るように命じられた。そこには、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人がたむろしていた。しもべは主人の仰せのとおりにしたが、まだまだ席が残っていたので、さらに主人は、通りや小道にいる人々もを連れて来て、この家をいっぱいにするようにと言った。
結局、神が日が到来したとき、その大宴会には本来招かれたものは出席に応じず、ユダヤ人の中でも差別されていた人々や異邦人といった、本来招待されていなかった者たちで宴会の席は満たされたのである。
このたとえには、三つの側面があるが、ユダヤ人だけはなく、私たちも耳を傾けなければならないメッセージがある。その背後にある神の思いを考えながら、感じながら、みことばを見ていきたい。
-つづく-