2011/11/15
Summary(11/11/13)-3-
11月13日主日礼拝「私たちに与えられているものを知っているか」
使徒の働き / 3章 1-10節
私たちに与えられているもの
2.イエスキリストの御名に対する信仰
男は、何か施しをもらえるのではないかと思っていた。しかし、ペテロとヨハネは、男に金銀はないが、私たちにあるものをあげようと言った。伝道の働きは、ないものをあげるものではなく、私たちがどんなに小さくて弱くても、持っているものを分かち合うことである。彼らが持っていたものは、イエス・キリストの信仰であり、主イエス・キリストの御名、すなわち、イエス・キリストの権威が与えられていたのである。
足の不自由な男がいやされた場面は、神殿での祈りのときであり、ちょうど人々が賑わっていた時間帯である。このときに重なり、人々の視線はこの出来事に集まるのであり、この奇蹟が人々を驚かせる騒ぎとなるのである。すると、この騒ぎに気付いた祭司や宮の守衛長、サドカイ派の人たちがやって来て、ペテロとヨハネを逮捕し、翌日まで留置するのである。
翌日、民の指導者、長老、学者は、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によって、こんなことをしたのか。」とペテロとヨハネに尋問する。この取り調べに対し、ペテロは、「あなた方が十字架につけ、よみがえられたイエス・キリストの御名によるのだ」と答えるのである。すると、指導者たちは、このことが民衆の間に広まることを恐れ、今後イエス・キリストの名によって誰にも話すなと命じるのである。しかし、ペテロとヨハネは、見たことや聞いたことを語らずにはいられなかったので、指導者の言うことに従おうとはしなかったのであった。
祭司や指導者たちの迫害は益々強まっていく。指導者たちは、二人をさらに脅して釈放したが、ペテロとヨハネは、イエス・キリストの御名のために、はずかしめに値する者とされたことを光栄に思うのであった。私たちは、イエス・キリストの十字架の愛を分かち合うために、愛の共同体と言うべき小さなコミュニティを形成する使命を共有してきたが、小さいコミュニティであっても、主イエス・キリストの名によって集まっていることが重要なのであり、その集まりに人数は関係ないのである。
“ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。”マタイ 18:20
人数が少なくても、主イエス・キリストの御名によって集まるところには、主イエス・キリストがおられる。その集まりが1000人いようと、イエスの御名によって集まっていなければ、それは単に人の集まりにすぎないのである。祈るときもそうである。どんな願い事であれ、二人が地上で心を一つにして求めるなら、私たちの天の父はそれをかなえてくださるのである。イエス・キリストの御名によって祈ることができるのは、キリスト者の特権である。私たちは、イエス・キリストの御名によって祈るという意識をもっと高めなければならない。イエス・キリストの御名の権威は、神から離れ失われた者であったとしても、回復することができるのであり、キリストの花嫁としてさらに成長していくことができるのである。
-つづく-