(1)試練のもたらす栄光
(イ)試練の目的
“信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。”(7)
金が純金になるために、火の中で精製され、精錬され、純粋化される。私たちの苦難は、神の試練であり、その試練を通じて信仰はより本物に近づいていく。キリスト者は、試練の中で、悲しんでいるかも知れないが、やがて偉大なるときが到来するときのために整えられているのである。
(ロ)試練の中での喜びの源泉
“大いに喜んで”いることのできる喜びの源泉は、なんだろうか
この手紙は、イエス・キリストを信じたユダヤのみならず、回心した異邦人に宛て書かれたものである。同胞であるはずのパリサイ派の人々や律法学者から差別を受け、ローマ帝国の圧政や搾取に苦しんでいたガリラヤ出身のユダヤ人、かつては、地獄の火のたきぎとして造られたとまで言われ、神に選ばれた民ではなかった異邦人。彼らが救い主(メシア)を待望した理由はそれなりに存在した。しかし、イエス・キリストをメシアと信じることによって、さらに迫害を被り、苦難に喘いでいたにもかかわらず、大いに喜び、望みを抱くことができたのである。なぜならば、彼らは、ペテロのようにイエスと寝食を共にし、肉眼をもってイエスを知ることはできなかったが、キリストを信じることにより、①朽ちない大いなる遺産を受け継ぎ、②信仰による魂の救いに預かり、③いつの日にか、イエスの姿を見ることができると確信した からである。神の試練は、神の愛する者たちに与えた下さった天使の遣いだったのである。だから、いたずらに悲しむことはない。やがて、イエス・キリストが現れるとき、称賛に値する栄光と栄誉の中にいることがわかるのである。
(ハ)試練の期間
“いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが”(6)
私たちの受ける試練の期間は「しばらくの間」である。ここで「しばらくの間」というのは、「永遠」と対比して用いられている。神は私たちを永遠の栄光の中に招き入れてくださるのであり、私たちは神の栄光のため、しばらくの間、試練を与えられるのである。
“あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”(5:10参照)
-つづく-
(三)試練の中での喜び(1:6-12)
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(6-8)
6節の冒頭、ペテロは、“そういうわけで”と、前文を受けて議論を展開しようとしているが、“そういうわけで”とは、どういうわけなのか。
前文には、以下の記述がある。
・生ける望みを持つようにしてくださいました。(3)
・資産を受け継ぐようにしてくださいました。(4)
・用意されている救いをいただくのです。(5)
新約聖書では、マタイの福音書から黙示録までを通して、25節に1回の割合で、イエス・キリストの“再臨”を表す言葉が記されている。ペテロ第一の手紙の1章を見ても、
・終わりのときに表されるように(5)
・イエス・キリストの現れのとき(7)
・イエス・キリストの現れのとき(13)
と一つの章に3回も“再臨”を表す言葉が使われ、“再臨”を強調している。
私たちは、“終わりのとき”がいつ到来し、そのときにどのようなことが起こるかは知らされていない。ただ、聖書のいう“終わりのとき”とは、成熟して、完成するときのことである。私たちの生きているこの世界では、その背後で神の贖いのわざが着々と成熟し、完成に向かっている。だから、信仰の目をもって、この世界の背後で起こっている現象をしっかりと見据えなければならない。救いのわざの完成するときが一刻一刻と近づいているからである。
キリストの“再臨”については、聖書で明言されているが、“再臨”は、“パルーシア”、“アポカリュプシス”、“エピファネイヤ”などといった言葉で表現されている。“パルーシア”は、ローマ皇帝などの貴い人が、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの一都市コリントやピリピへ訪問するなどといったときに用いられている言葉である。“アポカリュプシス”は、覆われているもんが取り除かれて、突然現れるという意味で使われている。“エピファネイヤ”はキリスト(救い主)が現れるという意味で使われている。
つまり、何を言いたいかというと、神が啓示・黙示された救いのわざは、約束どおり完成されようとしており、イエス・キリストの再臨が近づいている。そういうわけだから、今は、さまさまな苦難や迫害を経験し、試練の中にいるかも知れないが、やがて、称賛されるべき栄光と栄誉のときが来るから、大いに喜びなさいと、ペテロはここで語っているのである。
-つづく-
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(6-8)
6節の冒頭、ペテロは、“そういうわけで”と、前文を受けて議論を展開しようとしているが、“そういうわけで”とは、どういうわけなのか。
前文には、以下の記述がある。
・生ける望みを持つようにしてくださいました。(3)
・資産を受け継ぐようにしてくださいました。(4)
・用意されている救いをいただくのです。(5)
新約聖書では、マタイの福音書から黙示録までを通して、25節に1回の割合で、イエス・キリストの“再臨”を表す言葉が記されている。ペテロ第一の手紙の1章を見ても、
・終わりのときに表されるように(5)
・イエス・キリストの現れのとき(7)
・イエス・キリストの現れのとき(13)
と一つの章に3回も“再臨”を表す言葉が使われ、“再臨”を強調している。
私たちは、“終わりのとき”がいつ到来し、そのときにどのようなことが起こるかは知らされていない。ただ、聖書のいう“終わりのとき”とは、成熟して、完成するときのことである。私たちの生きているこの世界では、その背後で神の贖いのわざが着々と成熟し、完成に向かっている。だから、信仰の目をもって、この世界の背後で起こっている現象をしっかりと見据えなければならない。救いのわざの完成するときが一刻一刻と近づいているからである。
キリストの“再臨”については、聖書で明言されているが、“再臨”は、“パルーシア”、“アポカリュプシス”、“エピファネイヤ”などといった言葉で表現されている。“パルーシア”は、ローマ皇帝などの貴い人が、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの一都市コリントやピリピへ訪問するなどといったときに用いられている言葉である。“アポカリュプシス”は、覆われているもんが取り除かれて、突然現れるという意味で使われている。“エピファネイヤ”はキリスト(救い主)が現れるという意味で使われている。
つまり、何を言いたいかというと、神が啓示・黙示された救いのわざは、約束どおり完成されようとしており、イエス・キリストの再臨が近づいている。そういうわけだから、今は、さまさまな苦難や迫害を経験し、試練の中にいるかも知れないが、やがて、称賛されるべき栄光と栄誉のときが来るから、大いに喜びなさいと、ペテロはここで語っているのである。
-つづく-