74歳の叔父が洗礼を受けたことを父に報告したところ、父から私宛に手紙が届きました。高齢のため文章がみだれ乱筆でしたが、父の感謝の気持ちは十分伝わりました。叔父は、神戸で大学生時代を送っていましたが、全学連に身を置き、活動をしていたそうです。当時の大学生には当たり前のことだったかもしれませんが、叔父は、宗教そのものを否定し、キリストの救いの話にも全く耳を傾けませんでした。そんな叔父が、キリストの救いに導かれたことを、父は本当に神に感謝していました。恥ずかしながら、私も、信仰告白をしていたにもかかわらず、キリストから離れ、教会へ行かなくなった時期がありました。大学生時代、セクトにこそ所属していませんでしたが、その活動に共感していたことがありました。しかし神は、そんな私を再び捉えてくださいました。まじめなクリスチャンとは到底言えませんが、キリストこそ我が救い主であるという信仰はこれからも揺るぎなく持ち続けることでしょう。
4月27日 主日礼拝
『祝福を収穫する』
詩篇35:27、Ⅱテモテ2:6
今朝は、小坂忠先生をお迎えしての礼拝だった。勇気づけられた賛美と力強いメッセージを拝聴し、恵まれた礼拝であった。


“私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな」と。”詩篇35:27
クリスチャンは、どちらかというと「清く貧しく」というイメージがあるが、聖書は、「神は、私たちが繁栄することを喜ばれる。」と語っている。私も毎日、すべてのクリスチャンが、もっともっと豊かにされますようにと祈っている。社会の中に出て行って、その社会の中でも輝くクリスチャンとなることができますように。これが、私の毎日の祈りの課題である。クリスチャンが、神から祝福を受けて、この地上でも繁栄して行き、大きな影響力をもたらして行く。そうゆうクリスチャンにさせていただきたいと心から願っているのである。
“主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。” 創世記12:1-3
神はアブラハムに、「あなたが祝福のもとになり、あなたを通して神の祝福が流れていく。」と語った。そして、私たちもその祝福を受け、私たちを通して、神の祝福が社会や家庭に流れていくようにと望まれている。私たちは、どこに行っても、アブラハムの受けた祝福が、私たちを通して、この地上に豊かに流れていくことを神は願っているのである。
新約聖書では、このように記されている。“信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。”ガラテヤ3:9
信仰の人、すなわち私たちクリスチャンが、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのである。アブラハムが、この地上において、どれほど祝福されていたか。実は、彼のしもべがこのように証言している。
“主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。” 創世記24:35
神の祝福は、目に見える具体的な形で、豊かにあたえられたのである。よくご利益宗教と言われるが、私たちは、ご利益を求めるために、神を信じているわけではない。
創世記では、アブラハムが子イサクを連れて、モリヤの山へ行く場面がある。山の上で祭壇を築き、生贄として自分の息子をいのちを献げるようにと神が命じるのである。アブラハムが我が子に剣を振り下ろそうとしたとき、神はアブラハムに言うのである。“その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。”創世記22:11-12 つまり神は、イサクのいのちが欲しかった訳ではなかった。神は、アブラハムが自分の子のいのちでさえも献げようとするその心を見たかったのである。神は、私たちの大切なものを献げようとするその心を見られるのである。それは私たちが、経済的に、物質的に、精神的に、霊的もの祝福されるための神の法則なのである。私たちが祝福されないのに、どうして他の人々に祝福を分かち合うことができようか。
“労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。”Ⅱテモテ2:6
労苦した農夫こそ、まず収穫にあずかることができる。労苦をすれば、その報いとして収穫にあずかることができるのである。農夫の労苦とは、畑を耕し、肥料をまくことである。畑を耕すことも、肥料をまくことも、大変な作業である。なぜ、そんな思いまでして、農夫は労苦を惜しまないのか。それは、労苦をすることによって、収穫の期待がもてるからである。収穫と労苦は切り離すことのできない関係にある。何かを収穫しよう思うならば、労苦を惜しんではならない。労苦した農夫こそ収穫にあずかることができるのであり、祝福の種を蒔くときには、祝福の実を結ぶことができるのである。そして、愛の種を蒔くときには、豊かに愛の実を結ぶことでき、福音の種を蒔くときには、魂の収穫を得ることができるのである。
“目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです”ヨハネ4:35-36
全世界に出て行って、福音の宣べ伝えなさい。福音宣教とは、いのちの種を蒔き、いのちの実を刈り取ることである。しかし、祈りなくして、この宣教の働きはできない。ごつごつとした荒地に種を蒔いたとしても、なかなか収穫することができないように、地を耕して、種を蒔き、肥料をまいたとしても、なかなか魂の収穫を得ることができないのである。それはなぜか。それは、問題があることが問題ではなくて、祈らないことが問題なのである。祈らなくても恵があるように錯覚することがある。しかし、祈りのあるときにその恵は感動的なものとなるのである。与えられる恵を感動的に受け取り、そのような様子を見ることを神は喜ばれるのである。たましいのために祈り続けて、種を蒔けば、ホーリネス時代のような大リバイバルが必ず起こると信じるものである。なかなか芽を出さない種があるかも知れないが、祈り続けて、いのちの種を蒔き続けたいと思うものである。そして福音の収穫を皆と一緒にしたいと思うのである。神は、福音の繁栄を喜ばれるからである。
『祝福を収穫する』
詩篇35:27、Ⅱテモテ2:6
今朝は、小坂忠先生をお迎えしての礼拝だった。勇気づけられた賛美と力強いメッセージを拝聴し、恵まれた礼拝であった。


“私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな」と。”詩篇35:27
クリスチャンは、どちらかというと「清く貧しく」というイメージがあるが、聖書は、「神は、私たちが繁栄することを喜ばれる。」と語っている。私も毎日、すべてのクリスチャンが、もっともっと豊かにされますようにと祈っている。社会の中に出て行って、その社会の中でも輝くクリスチャンとなることができますように。これが、私の毎日の祈りの課題である。クリスチャンが、神から祝福を受けて、この地上でも繁栄して行き、大きな影響力をもたらして行く。そうゆうクリスチャンにさせていただきたいと心から願っているのである。
“主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。” 創世記12:1-3
神はアブラハムに、「あなたが祝福のもとになり、あなたを通して神の祝福が流れていく。」と語った。そして、私たちもその祝福を受け、私たちを通して、神の祝福が社会や家庭に流れていくようにと望まれている。私たちは、どこに行っても、アブラハムの受けた祝福が、私たちを通して、この地上に豊かに流れていくことを神は願っているのである。
新約聖書では、このように記されている。“信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。”ガラテヤ3:9
信仰の人、すなわち私たちクリスチャンが、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのである。アブラハムが、この地上において、どれほど祝福されていたか。実は、彼のしもべがこのように証言している。
“主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。” 創世記24:35
神の祝福は、目に見える具体的な形で、豊かにあたえられたのである。よくご利益宗教と言われるが、私たちは、ご利益を求めるために、神を信じているわけではない。
創世記では、アブラハムが子イサクを連れて、モリヤの山へ行く場面がある。山の上で祭壇を築き、生贄として自分の息子をいのちを献げるようにと神が命じるのである。アブラハムが我が子に剣を振り下ろそうとしたとき、神はアブラハムに言うのである。“その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。”創世記22:11-12 つまり神は、イサクのいのちが欲しかった訳ではなかった。神は、アブラハムが自分の子のいのちでさえも献げようとするその心を見たかったのである。神は、私たちの大切なものを献げようとするその心を見られるのである。それは私たちが、経済的に、物質的に、精神的に、霊的もの祝福されるための神の法則なのである。私たちが祝福されないのに、どうして他の人々に祝福を分かち合うことができようか。
“労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。”Ⅱテモテ2:6
労苦した農夫こそ、まず収穫にあずかることができる。労苦をすれば、その報いとして収穫にあずかることができるのである。農夫の労苦とは、畑を耕し、肥料をまくことである。畑を耕すことも、肥料をまくことも、大変な作業である。なぜ、そんな思いまでして、農夫は労苦を惜しまないのか。それは、労苦をすることによって、収穫の期待がもてるからである。収穫と労苦は切り離すことのできない関係にある。何かを収穫しよう思うならば、労苦を惜しんではならない。労苦した農夫こそ収穫にあずかることができるのであり、祝福の種を蒔くときには、祝福の実を結ぶことができるのである。そして、愛の種を蒔くときには、豊かに愛の実を結ぶことでき、福音の種を蒔くときには、魂の収穫を得ることができるのである。
“目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです”ヨハネ4:35-36
全世界に出て行って、福音の宣べ伝えなさい。福音宣教とは、いのちの種を蒔き、いのちの実を刈り取ることである。しかし、祈りなくして、この宣教の働きはできない。ごつごつとした荒地に種を蒔いたとしても、なかなか収穫することができないように、地を耕して、種を蒔き、肥料をまいたとしても、なかなか魂の収穫を得ることができないのである。それはなぜか。それは、問題があることが問題ではなくて、祈らないことが問題なのである。祈らなくても恵があるように錯覚することがある。しかし、祈りのあるときにその恵は感動的なものとなるのである。与えられる恵を感動的に受け取り、そのような様子を見ることを神は喜ばれるのである。たましいのために祈り続けて、種を蒔けば、ホーリネス時代のような大リバイバルが必ず起こると信じるものである。なかなか芽を出さない種があるかも知れないが、祈り続けて、いのちの種を蒔き続けたいと思うものである。そして福音の収穫を皆と一緒にしたいと思うのである。神は、福音の繁栄を喜ばれるからである。
某教会の、イースター礼拝のUstreamを拝聴しました。私たちは、いま暗闇の中に生きている、あるいは生きていました。しかし、私たちは、イエス・キリストの復活の希望を与えられました。神のみここが成就するときに、神の憐れみによって、救いがおこるこということです。そして、そのことによって、私たちに永遠の命があたえられます。人はいずれ死という現実に立ち向かわなければなりませが、たとえ、私たちの肉体の命が滅んだとしても、いすれ来るべき日に神の国に入れてくださるという信仰と確信を与えられました。誰も、聖霊によらなければ、イエスを救い主を救い主と告白することはできません。しかし、誰もが、表現法方法は別として、イエス・キリストを救い主であると告白できるようにお祈りしています。主イエス・キリストは、私たちとともに、私たちの内に生きておられます。アーメンです。感謝します。
4月20日 イースター礼拝
神は、主イエス・キリストの復活を知らせるたに、目撃者を立てられた。マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤたちである。最初の目撃者は、マグダラのマリヤであった。彼女は、苦しい人生を歩んでいた。聖書の記述によると、イエスによって七つの悪霊を追い出されたとある。彼女はイエス・キリストと出会い、新しく生まれ変わったのであり、弟子たちとともに、ガリラヤからエルサレムまで付き従うことになるのである。
マリヤたちは、イエス・キリストが金曜日に亡くなった後、安息日が開けるのを待ち、心を込めて、埋葬の準備をしていた。すると、まばゆいばかりの白い衣を着た御使いが現れて、「イエス・キリストは、よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」と言った。神は、特別なことを伝えさせるために、御使いを彼女たちの前に遣わしたのである。
マグダラのマリヤたちは、十字架にかかられたイエス・キリストに近づくこともできず、その惨めな様子を眺めていた。人生には必ず大きな試練があり、悲しみにぶつかり、希望を見失うことがある。彼女たちは、まさにどん底の状況だった。しかし、イエス・キリストは三日後によみがえり、彼女たちは、その状況を間近で見ることができたのである。すなわち、絶望から希望に変わったのである。そして、主イエス・キリストの復活の事実は、彼女らの証言により周知さるのである。弟子たちも、イエスの復活を聞いて、最初は懐疑的であったが、復活のイエスに出会い、彼らも信仰的な姿勢も百八十度変わり、イエスの戒めをしっかりと受け止めるのである。
神の子イエス・キリストの十字架の死と復活を信じるすべての者は、罪赦され、永遠の生命が与えられ、神の国を継ぐ者とされる。私たちは、主イエス・キリストの十字架の死とともに葬られ、復活とともに、内も外も新しく生まれ変わったのである。こんな私たちでも、神の国に入れてもらえる特権が与えられたのである。私たちは、主イエス・キリストの死と復活によって生かされているのであり、残された人生をイエス・キリストと歩むのである。イエス・キリストは、私たちを支え、助けてくださる。そして、いずれ来るべき日に、私たちは、神の国に入れてもらえるのである。
神は、主イエス・キリストの復活を知らせるたに、目撃者を立てられた。マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤたちである。最初の目撃者は、マグダラのマリヤであった。彼女は、苦しい人生を歩んでいた。聖書の記述によると、イエスによって七つの悪霊を追い出されたとある。彼女はイエス・キリストと出会い、新しく生まれ変わったのであり、弟子たちとともに、ガリラヤからエルサレムまで付き従うことになるのである。
マリヤたちは、イエス・キリストが金曜日に亡くなった後、安息日が開けるのを待ち、心を込めて、埋葬の準備をしていた。すると、まばゆいばかりの白い衣を着た御使いが現れて、「イエス・キリストは、よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」と言った。神は、特別なことを伝えさせるために、御使いを彼女たちの前に遣わしたのである。
マグダラのマリヤたちは、十字架にかかられたイエス・キリストに近づくこともできず、その惨めな様子を眺めていた。人生には必ず大きな試練があり、悲しみにぶつかり、希望を見失うことがある。彼女たちは、まさにどん底の状況だった。しかし、イエス・キリストは三日後によみがえり、彼女たちは、その状況を間近で見ることができたのである。すなわち、絶望から希望に変わったのである。そして、主イエス・キリストの復活の事実は、彼女らの証言により周知さるのである。弟子たちも、イエスの復活を聞いて、最初は懐疑的であったが、復活のイエスに出会い、彼らも信仰的な姿勢も百八十度変わり、イエスの戒めをしっかりと受け止めるのである。
神の子イエス・キリストの十字架の死と復活を信じるすべての者は、罪赦され、永遠の生命が与えられ、神の国を継ぐ者とされる。私たちは、主イエス・キリストの十字架の死とともに葬られ、復活とともに、内も外も新しく生まれ変わったのである。こんな私たちでも、神の国に入れてもらえる特権が与えられたのである。私たちは、主イエス・キリストの死と復活によって生かされているのであり、残された人生をイエス・キリストと歩むのである。イエス・キリストは、私たちを支え、助けてくださる。そして、いずれ来るべき日に、私たちは、神の国に入れてもらえるのである。
以前に、ブログでも紹介しましたが、本日のイースター礼拝で74歳になる叔父が洗礼を受けました。家族が、ずっと祈り続けていたので、嬉しさのあまりに、涙がでるほどでした。
本日の礼拝は他教会で捧げましたので、その礼拝メッセージのSummaryは追って掲載させていただきます。
本日の礼拝は他教会で捧げましたので、その礼拝メッセージのSummaryは追って掲載させていただきます。
4月13日主日礼拝
『私たちのために祈られるキリスト』(2014受難週①)
ルカ 23章33-49節
本日は、棕櫚の主日である。イエスがエルサレムに入城した日であり、民衆が棕櫚(しゅろ)の葉を打ち振ってイエスを迎えたことから、この日は「棕櫚の主日」と呼ばれている。また、イースター(復活日)の前の日曜日であり、この日から受難週が始まる。主イエス・キリストの十字架を覚え復活を祝う備えのときである。
今朝の箇所では、主イエスが十字架につけられ息を引き取るまでの様子と、そこに居合わせた周辺の人々の姿が記されている。すべての人は、それぞれの立場で、主イエスの十字架の事実の前に立たされている。それは、時代を超えた現代でも同様のことである。聖書の記事を通して、主イエスの十字架をどのように受け止めて生きていくべきかを考えたい。
1 私たちは何をしているのか
“そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。”34節
ここで問題となるのは、「彼ら」とは誰を指すのかということである。「彼らは、何をしているのか自分でわからない」とある。「自分でわからない」とは、果たして、誰のことを指しているのか。この答えによって、この箇所の読み方が変ってくる。
問題を検証するために、ここでの主な登場人物を拾いあげてみた。
・イエスを讃えて迎え入れたのに、一転して、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆 ルカ23章21節
・イエスの十字架を無理矢理負わされたシモンというクレネ人 同26節
・イエスのことを嘆き悲しむ女たち 同27節
(女たちとは、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、ゼベダイの子らの母)
・イエスとともに死刑にされるふたりの犯罪人 同32節
・くじをひいてイエスの着物を分けた兵士たち 同34節
・イエスを嘲った祭司長、律法学者、パリサイ派の人たち、長老たち 同35節
・百人隊長 同47節
・イエスの亡骸を引き取って、墓に葬ったサンヘドリンの議員であったヨセフ 同50節
ちなみに、弟子たちはこの場面では登場しないことを見逃してはならない。弟子たちは、この表舞台から消えている。またイエスの誕生を祝った人々はどこに行ったのか。
「彼ら」とは、ここに登場するすべての人たちのことである。しかし、彼らだけが特に罪深いという訳ではなく、イエスを十字架につけた責任を問われるべきでもない。ここに登場する人物は、私たちと何ら変わらない。私たちが十字架の前に立っていたならば、恐らく彼らと同じような行為に及び、きっとイエスを十字架につけたことであろう。イエスを十字架につけたのは、他でもない私たち人間なのである。
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。”イザヤ書 53章5-6節
2 私たちは自分自身の罪に気付いているか
“十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」”ルカ 23章39-40節
二人の犯罪人が登場する。十字架刑に処せられるほどの大罪を犯した二人である。同じ十字架刑に処せられた二人であるが、その後の行き先は大きく違っている。二人の共通項は、どちらも犯罪人であり、正しいひとではないということである。しかし、二人の共通項を打ち消すほどの相違点がこの二人にはあったのである。何が違ったのか。
一人は、自分の人生の責任を認め、自分したことの報いを受けることは当然あると悔い改めた。もう一人は、自分の人生の責任を他人に転嫁している。二人には、イエスキリストに対する信仰のあり方に大きな違いがあったのである。人はみな罪人である。自分の罪が大きいとか、小さいということが問題ではなく、自分の罪に対する姿勢が問題なのである。自分の罪を棚に上げて、自分の人生の責任を他人に押しつける。神を恐れずに生きる。方やもう一人の犯罪人は、自分の罪を認め、悔い改めて、私を思い出して下さいと主に憐れみを請うている。私たちは自分の罪に気付いているだろうか。主イエスの前に、自分の足りないもの、罪に紛れていることを曝け出すときに、救いに預かることができるということである。
3 私たちは十字架のイエス・キリストを見ているか
“この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。” ルカ 23章47-49節
そこには百人隊長がいた、彼は100人の部隊を束ねる長であった。彼は、数々の実戦や経験を積んできた強者であった。戦場では多くの人の死を見てきたことであろう。しかし、イエスの十字架上の死の凄まじさを見たとき、イエスを神の子と確信した。百人隊長は、十字架のイエス・キリストを見ていたとき、主を信じたのである。そして、多くの人に感動を与えたのも、十字架上のイエス・キリストの姿であった。離れたところに女たちがいた。彼女たちは、途方に暮れ、悲しみ傷ついていた。しかし、彼女たちも、遠くからであったが(そこにおり)、十字架のイエス・キリストを見ていたのである。
受難週を経てイースターを迎える。私たちは、十字架の前に立つとき、光り輝いているイエス・キリストの復活の姿を仰ぎ見ることができるであろう。そして、神の愛を感じることができるのである。主が十字架の上で苦しまれているとき、あなたは何処にいたのか。そして、自分の罪の問題を何処に持って行くのか?十字架におけるところのイエス・キリストを見続けることがその答えである。
『私たちのために祈られるキリスト』(2014受難週①)
ルカ 23章33-49節
本日は、棕櫚の主日である。イエスがエルサレムに入城した日であり、民衆が棕櫚(しゅろ)の葉を打ち振ってイエスを迎えたことから、この日は「棕櫚の主日」と呼ばれている。また、イースター(復活日)の前の日曜日であり、この日から受難週が始まる。主イエス・キリストの十字架を覚え復活を祝う備えのときである。
今朝の箇所では、主イエスが十字架につけられ息を引き取るまでの様子と、そこに居合わせた周辺の人々の姿が記されている。すべての人は、それぞれの立場で、主イエスの十字架の事実の前に立たされている。それは、時代を超えた現代でも同様のことである。聖書の記事を通して、主イエスの十字架をどのように受け止めて生きていくべきかを考えたい。
1 私たちは何をしているのか
“そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。”34節
ここで問題となるのは、「彼ら」とは誰を指すのかということである。「彼らは、何をしているのか自分でわからない」とある。「自分でわからない」とは、果たして、誰のことを指しているのか。この答えによって、この箇所の読み方が変ってくる。
問題を検証するために、ここでの主な登場人物を拾いあげてみた。
・イエスを讃えて迎え入れたのに、一転して、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆 ルカ23章21節
・イエスの十字架を無理矢理負わされたシモンというクレネ人 同26節
・イエスのことを嘆き悲しむ女たち 同27節
(女たちとは、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、ゼベダイの子らの母)
・イエスとともに死刑にされるふたりの犯罪人 同32節
・くじをひいてイエスの着物を分けた兵士たち 同34節
・イエスを嘲った祭司長、律法学者、パリサイ派の人たち、長老たち 同35節
・百人隊長 同47節
・イエスの亡骸を引き取って、墓に葬ったサンヘドリンの議員であったヨセフ 同50節
ちなみに、弟子たちはこの場面では登場しないことを見逃してはならない。弟子たちは、この表舞台から消えている。またイエスの誕生を祝った人々はどこに行ったのか。
「彼ら」とは、ここに登場するすべての人たちのことである。しかし、彼らだけが特に罪深いという訳ではなく、イエスを十字架につけた責任を問われるべきでもない。ここに登場する人物は、私たちと何ら変わらない。私たちが十字架の前に立っていたならば、恐らく彼らと同じような行為に及び、きっとイエスを十字架につけたことであろう。イエスを十字架につけたのは、他でもない私たち人間なのである。
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。”イザヤ書 53章5-6節
2 私たちは自分自身の罪に気付いているか
“十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」”ルカ 23章39-40節
二人の犯罪人が登場する。十字架刑に処せられるほどの大罪を犯した二人である。同じ十字架刑に処せられた二人であるが、その後の行き先は大きく違っている。二人の共通項は、どちらも犯罪人であり、正しいひとではないということである。しかし、二人の共通項を打ち消すほどの相違点がこの二人にはあったのである。何が違ったのか。
一人は、自分の人生の責任を認め、自分したことの報いを受けることは当然あると悔い改めた。もう一人は、自分の人生の責任を他人に転嫁している。二人には、イエスキリストに対する信仰のあり方に大きな違いがあったのである。人はみな罪人である。自分の罪が大きいとか、小さいということが問題ではなく、自分の罪に対する姿勢が問題なのである。自分の罪を棚に上げて、自分の人生の責任を他人に押しつける。神を恐れずに生きる。方やもう一人の犯罪人は、自分の罪を認め、悔い改めて、私を思い出して下さいと主に憐れみを請うている。私たちは自分の罪に気付いているだろうか。主イエスの前に、自分の足りないもの、罪に紛れていることを曝け出すときに、救いに預かることができるということである。
3 私たちは十字架のイエス・キリストを見ているか
“この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。” ルカ 23章47-49節
そこには百人隊長がいた、彼は100人の部隊を束ねる長であった。彼は、数々の実戦や経験を積んできた強者であった。戦場では多くの人の死を見てきたことであろう。しかし、イエスの十字架上の死の凄まじさを見たとき、イエスを神の子と確信した。百人隊長は、十字架のイエス・キリストを見ていたとき、主を信じたのである。そして、多くの人に感動を与えたのも、十字架上のイエス・キリストの姿であった。離れたところに女たちがいた。彼女たちは、途方に暮れ、悲しみ傷ついていた。しかし、彼女たちも、遠くからであったが(そこにおり)、十字架のイエス・キリストを見ていたのである。
受難週を経てイースターを迎える。私たちは、十字架の前に立つとき、光り輝いているイエス・キリストの復活の姿を仰ぎ見ることができるであろう。そして、神の愛を感じることができるのである。主が十字架の上で苦しまれているとき、あなたは何処にいたのか。そして、自分の罪の問題を何処に持って行くのか?十字架におけるところのイエス・キリストを見続けることがその答えである。
4月6日主日礼拝
『この小さい者たちのために』 (輝く人生と信仰生活⑪)
マタイ書18章1-14節
これまで、「教会の5つの働き」について学んできた。それは、「私たちが教会において大切にしたいこと」であり、「私たちの人生の5つの目的」である。
「教会の5つの働き」とは、「礼拝」「奉仕」「伝道」「交わり」「成熟」であるが、それは、教会の働きを強めるとともに、私たちの人生の目的を明確にするものである。
今回は、「教会の5つの働き」に加え、もう一つの大切な働きついて、学びたい。それは、「子どもたちに対する信仰教育は、教会の大切な使命である」ということである。
1、子どもたちは神様に愛されている人格的な存在である
私たちの身体は、母の体内で、神によって組み立てられた。そして、私たちは、神から自由な意思と人格を与えられた。私たちは、子どもを作るとか、子どもが出来たという表現を用いるが、私たちが自ら生命を作り出すものではない。子どもは、神から授かりものであり、委ねられたものである。だから、子どもを救いに導き、信仰を育んでいくことは重要であり、教会の使命の一つなのである。
2、子どもたちの養育の原点は家庭にある
子どもは、おとなの生き方をみて、どのように生きていくかを学ぶものである。すなわち、子どもの養育の責任は、まずは家庭にあると言えるのである。しかし、その前提として、親は、子どもに聖書の教えと価値観を教え、信仰の継承を、子どものときから教示しなければならない。
3、教会は子どもたちと親を全力で支え、家族の救いを祈る
子どもたちの養育の原点は家庭にある。しかし、親が子どもを養育する前に、親自身が成長しなければならない。親が、神にあって成熟しなければ、どうして子どもを育てることができようか。だから、教会は、子どもたちと親を全力で支え、家族の救いのために祈る。それが、教会の使命である。
『この小さい者たちのために』 (輝く人生と信仰生活⑪)
マタイ書18章1-14節
これまで、「教会の5つの働き」について学んできた。それは、「私たちが教会において大切にしたいこと」であり、「私たちの人生の5つの目的」である。
「教会の5つの働き」とは、「礼拝」「奉仕」「伝道」「交わり」「成熟」であるが、それは、教会の働きを強めるとともに、私たちの人生の目的を明確にするものである。
今回は、「教会の5つの働き」に加え、もう一つの大切な働きついて、学びたい。それは、「子どもたちに対する信仰教育は、教会の大切な使命である」ということである。
1、子どもたちは神様に愛されている人格的な存在である
私たちの身体は、母の体内で、神によって組み立てられた。そして、私たちは、神から自由な意思と人格を与えられた。私たちは、子どもを作るとか、子どもが出来たという表現を用いるが、私たちが自ら生命を作り出すものではない。子どもは、神から授かりものであり、委ねられたものである。だから、子どもを救いに導き、信仰を育んでいくことは重要であり、教会の使命の一つなのである。
2、子どもたちの養育の原点は家庭にある
子どもは、おとなの生き方をみて、どのように生きていくかを学ぶものである。すなわち、子どもの養育の責任は、まずは家庭にあると言えるのである。しかし、その前提として、親は、子どもに聖書の教えと価値観を教え、信仰の継承を、子どものときから教示しなければならない。
3、教会は子どもたちと親を全力で支え、家族の救いを祈る
子どもたちの養育の原点は家庭にある。しかし、親が子どもを養育する前に、親自身が成長しなければならない。親が、神にあって成熟しなければ、どうして子どもを育てることができようか。だから、教会は、子どもたちと親を全力で支え、家族の救いのために祈る。それが、教会の使命である。
ルツ記から、ルツとナオミの関係について、何か書こうと思いましたが、いきなり、士師(さばきつかさ)という言葉に引っかかり、今更ですが、もう一度、「さばきつかさ」について、調べ直しました。ルツとナオミの関係については、機会があれば、追って書きたいと思っています。
イスラエルの民は、神がアブラハムとその子孫に与えると約束したカナンの地を、ヨシュアの指揮のもと攻略した。そして、カナン地をイスラエルの各部族ごとにを分割することになるのである。ヨシュアの死後、イスラエルの各部族は各分割地を獲得し、イスラエルの民のカナンの獲得の時代は終りを告げたのである。
しかし、今度は、先住民や外敵の脅威に晒されるようになる。カナンの地の周囲には異邦人に囲まれており、カナンの地には先住民が残留していた。すなわち、カナンの地を外敵が、次々に脅かしてくるという国外問題と、先住民を完全に追い出すことのできないという、国内問題を抱えるようになるのである。
イスラエルの民は、神の命令に従わず、異邦人である外敵や先住民と共存する道を選択するのである。その結果、イスラエルの民は、神から離れて、先住民のバアルの神や、異教の神などを崇めるようになるのである。
イスラエルの民がカナンに定着し、王政が確立するまで、イスラエルの民を統率する指導者は存在しなかった。そこで、神は、士師(さばきつかさ)という指導者をイスラエルの民にお与えになった。「さばきつかさ)とは、国内外の問題から、民を守る統率者とのことである。
イスラエルの民は、神がアブラハムとその子孫に与えると約束したカナンの地を、ヨシュアの指揮のもと攻略した。そして、カナン地をイスラエルの各部族ごとにを分割することになるのである。ヨシュアの死後、イスラエルの各部族は各分割地を獲得し、イスラエルの民のカナンの獲得の時代は終りを告げたのである。
しかし、今度は、先住民や外敵の脅威に晒されるようになる。カナンの地の周囲には異邦人に囲まれており、カナンの地には先住民が残留していた。すなわち、カナンの地を外敵が、次々に脅かしてくるという国外問題と、先住民を完全に追い出すことのできないという、国内問題を抱えるようになるのである。
イスラエルの民は、神の命令に従わず、異邦人である外敵や先住民と共存する道を選択するのである。その結果、イスラエルの民は、神から離れて、先住民のバアルの神や、異教の神などを崇めるようになるのである。
イスラエルの民がカナンに定着し、王政が確立するまで、イスラエルの民を統率する指導者は存在しなかった。そこで、神は、士師(さばきつかさ)という指導者をイスラエルの民にお与えになった。「さばきつかさ)とは、国内外の問題から、民を守る統率者とのことである。
歴代誌Ⅱでは、シェバの女王がソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって、ソロモンを試そうとする記事がしるされている。そこには、ソロモンがイスラエルの王位を神から授けられたとき、知恵と識見が与えられ、それのみならず、富と財宝、名誉をも与えられた。という歴史的事実が前提にある。
シェバの女王は、ソロモンの名声を伝え聞いていたので、その評判が真実かどうかを確認するために、ソロモンを訪問する(シェバ国は、アラビア半島南西部に位置し、金、香料、宝石など、自国の産物を交易していた国である。)。そして、シェバの女王は、難問をもってソロモンを試そうと、大勢の随員を伴い、香料、多くの金、宝石を持参して、エルサレムにやって来るのである。
シェバの女王は、あらかじめ用意していた質問をソロモンに浴びせるが、ソロモンに答えられない質問は何一つなかった。ソロモンは、完璧に回答するのである。彼女は、ソロモンのその姿を見て、彼の知恵は言うに及ばず、彼の建てた宮殿、食卓に準備された料理、控える家臣、丁重に持て成す給仕たちや献酌官の装い、さらには、神殿で焼き尽くす神への献げ物を見て、驚嘆するのである。
シェバの女王が前もって聞いていたソロモンの名声は、評判通りのものであり、シェバの女王は、ソロモンの業績と知恵に敬服し、自分の識見のなさを恥じるのである。そればかりか、異邦人であるにもかかわらず、彼女は、イスラエルの神を崇め、賛美し、ソロモンの今後のますますの発展を疑わなかったのである。
シェバの女王は、金百二十タラントの金、多くの香料、宝石などをソロモンに贈った。特に香料に至っては、他にくらべるものがないくらいに貴重なものであった。また、運ばれてきた白檀や宝石も、ユダの地でだれもが見たことはなかったほどに素晴らしいものであった。そのことは、ソロモンが神殿と王宮の床板や、詠唱者のための竪琴や琴を作った記述から窺われる。しかし、ソロモンは、シェバの女王が彼に贈った物に報いるため、贈られたもの以上に、シェバの女王が願うものを何でも望みのままに与えるのである。こうして女王とその一行は故国に帰って行った。と記されている。
私は、この記事を読んだとき、シェバの女王とソロモンの関係性において、イエス・キリストと私たちの関係に類似するものがあると思った。
シェバの女王は、ソロモンに会ったとき、神の偉大さを謙虚に受け入れた。私たちは、イエス・キリストにお会いしたとき、どのような態度で臨むべきだろうか。パリサイ派の人々のように、敵意を顕にする態度を取るだろうか。シェバの女王がソロモンに対して取ったように、真摯な態度を示すことができるだろうか。
すなわち、私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪が贖われ、赦されたという福音に触れたとき、どのような態度であるべきかということである。パリサイ派の人々のように、敵意を抱くとはまでは言わなくとも、私たちが救われたという事実を、一定の距離をおいて傍観しているだけでは、救いは自分のものにはならない。主の導きに従い、心を開いて、主の前に近づくとき、「あなたこそ、私たちの救い主イエス・キリストである。」と心底から告白することができるのであり、私たちの救いが、神の業であると信じることができるのである。
シェバの女王は、異邦人でありながら、ソロモンの知恵と見識、業績などに驚嘆し、神の偉大さを知り、神を崇めたとある。私たちは、シェバの女王と同様に、自分が無価値であることを知り、己に対する過大評価を打ち消すことができるのかが重要である。神はソロモン以上に知恵と見識のあるお方なのである。
引用:歴代誌下/ 1章 7-12節、同/ 9章 1-12節
シェバの女王は、ソロモンの名声を伝え聞いていたので、その評判が真実かどうかを確認するために、ソロモンを訪問する(シェバ国は、アラビア半島南西部に位置し、金、香料、宝石など、自国の産物を交易していた国である。)。そして、シェバの女王は、難問をもってソロモンを試そうと、大勢の随員を伴い、香料、多くの金、宝石を持参して、エルサレムにやって来るのである。
シェバの女王は、あらかじめ用意していた質問をソロモンに浴びせるが、ソロモンに答えられない質問は何一つなかった。ソロモンは、完璧に回答するのである。彼女は、ソロモンのその姿を見て、彼の知恵は言うに及ばず、彼の建てた宮殿、食卓に準備された料理、控える家臣、丁重に持て成す給仕たちや献酌官の装い、さらには、神殿で焼き尽くす神への献げ物を見て、驚嘆するのである。
シェバの女王が前もって聞いていたソロモンの名声は、評判通りのものであり、シェバの女王は、ソロモンの業績と知恵に敬服し、自分の識見のなさを恥じるのである。そればかりか、異邦人であるにもかかわらず、彼女は、イスラエルの神を崇め、賛美し、ソロモンの今後のますますの発展を疑わなかったのである。
シェバの女王は、金百二十タラントの金、多くの香料、宝石などをソロモンに贈った。特に香料に至っては、他にくらべるものがないくらいに貴重なものであった。また、運ばれてきた白檀や宝石も、ユダの地でだれもが見たことはなかったほどに素晴らしいものであった。そのことは、ソロモンが神殿と王宮の床板や、詠唱者のための竪琴や琴を作った記述から窺われる。しかし、ソロモンは、シェバの女王が彼に贈った物に報いるため、贈られたもの以上に、シェバの女王が願うものを何でも望みのままに与えるのである。こうして女王とその一行は故国に帰って行った。と記されている。
私は、この記事を読んだとき、シェバの女王とソロモンの関係性において、イエス・キリストと私たちの関係に類似するものがあると思った。
シェバの女王は、ソロモンに会ったとき、神の偉大さを謙虚に受け入れた。私たちは、イエス・キリストにお会いしたとき、どのような態度で臨むべきだろうか。パリサイ派の人々のように、敵意を顕にする態度を取るだろうか。シェバの女王がソロモンに対して取ったように、真摯な態度を示すことができるだろうか。
すなわち、私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪が贖われ、赦されたという福音に触れたとき、どのような態度であるべきかということである。パリサイ派の人々のように、敵意を抱くとはまでは言わなくとも、私たちが救われたという事実を、一定の距離をおいて傍観しているだけでは、救いは自分のものにはならない。主の導きに従い、心を開いて、主の前に近づくとき、「あなたこそ、私たちの救い主イエス・キリストである。」と心底から告白することができるのであり、私たちの救いが、神の業であると信じることができるのである。
シェバの女王は、異邦人でありながら、ソロモンの知恵と見識、業績などに驚嘆し、神の偉大さを知り、神を崇めたとある。私たちは、シェバの女王と同様に、自分が無価値であることを知り、己に対する過大評価を打ち消すことができるのかが重要である。神はソロモン以上に知恵と見識のあるお方なのである。
引用:歴代誌下/ 1章 7-12節、同/ 9章 1-12節
本稿のテーマは、「家族の救い」についてである。
家族とは、夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を意味する。
福音宣教といった場合、外に向かって大声で福音を宣べ伝えるという意味で語られる場合もあるが、もちろんそれは、極めて重要なことである。ただ、外に向かってだけではなく、最も身近にいる親子・兄弟や身の回りにいる親族に対して福音を伝えることも、当然のことながら大切である。
私は、クリスチャンホームに生まれたので、親・兄弟に福音を伝えるということはなかったが、親族縁者には、福音を受け入れない者がまだまだ多い。これまでにも、何度も親族に対して福音を語ってきたが、身近にいる者だけに、相当な抵抗が伴うものであり、困難を極めてきた。しかし、身近にいる家族や親族が救いに導かれるために、私たちが努めることは、神の前において、先に救われた者の責任であると思うのである。たとえ、困難が伴い、拒絶され続けたとしても、たゆまず、絶えず家族の救いのために真剣に祈り求める姿勢を持ち続けたいと思うものである。
昨年末に、私のいとこが、46歳の若さで急逝した(彼の父はすでに他界し天に召されている。)。その葬儀の場で、74歳になる叔父が、「わし(私)洗礼を受けよう思っているんや」と妹の耳元でこっそり囁いた。叔父は妹に、「このことは兄貴(私の父のこと)に絶対に言うなよ。言うたら洗礼を受けるのを止めるからな。」と、おしゃべりの妹に釘をさしたそうである。この話を私が知っているということは、妹から聞いたからであるが、おそらく、私の両親はこのブログを見ていないので、両親に漏れ聞こえることはないだろう。
叔父は、父の兄弟姉妹の中で唯一、キリストの福音を長年受け容れてこなかった。この間、うちの父や他の兄弟姉妹は、ことあるごとに叔父に福音を語ってきた。しかしいつも、「キリスト教の話はもう結構」などと拒絶し続けてきたし、いつも最後にはちょっとした言い合いになってしまっていた。それでも、父や兄弟姉妹は、たゆまず祈り続けてきたのである。きっと、神はその長年の祈りを聞き入れて下さったのである。私たち家族の長年の祈りが聞き入れられたと思うと、本当に涙がでるくらい嬉しかった。
今回の叔父のことを通して、あらためて思わされたことは、家族の救いのために、福音の証を恐れずに語っていくことの大切さである。また、家族の救いのために祈り続けるということである。これは、時間を要し、辛抱強く語り続ける気力を持続しなければならないが、神は、その祈りを必ず聞き入れてくださるという信仰を確信した。
「家族に福音を伝える」ということは、ノンクリスチャンの家族に福音を伝えるということばかりではない。クリスチャンとなった家族でも、キリストから離れ、教会へ行かなくなった者がいるかも知れない。私たちは、その者が、神の前に立ち返り、ぶどうの木であるキリストの枝となり、しっかりとキリストにつながり、豊かな実を結ぶクリスチャンになることを、祈り求めなければならないのである。
本当のことを言うと、かつて、キリストから離れ、教会へ行かなくなったのは、私のことである。その中で、家族の陰でのたゆまない祈りがあったのである。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしがその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 (ヨハネによる福音書15:4-5).
家族とは、夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を意味する。
福音宣教といった場合、外に向かって大声で福音を宣べ伝えるという意味で語られる場合もあるが、もちろんそれは、極めて重要なことである。ただ、外に向かってだけではなく、最も身近にいる親子・兄弟や身の回りにいる親族に対して福音を伝えることも、当然のことながら大切である。
私は、クリスチャンホームに生まれたので、親・兄弟に福音を伝えるということはなかったが、親族縁者には、福音を受け入れない者がまだまだ多い。これまでにも、何度も親族に対して福音を語ってきたが、身近にいる者だけに、相当な抵抗が伴うものであり、困難を極めてきた。しかし、身近にいる家族や親族が救いに導かれるために、私たちが努めることは、神の前において、先に救われた者の責任であると思うのである。たとえ、困難が伴い、拒絶され続けたとしても、たゆまず、絶えず家族の救いのために真剣に祈り求める姿勢を持ち続けたいと思うものである。
昨年末に、私のいとこが、46歳の若さで急逝した(彼の父はすでに他界し天に召されている。)。その葬儀の場で、74歳になる叔父が、「わし(私)洗礼を受けよう思っているんや」と妹の耳元でこっそり囁いた。叔父は妹に、「このことは兄貴(私の父のこと)に絶対に言うなよ。言うたら洗礼を受けるのを止めるからな。」と、おしゃべりの妹に釘をさしたそうである。この話を私が知っているということは、妹から聞いたからであるが、おそらく、私の両親はこのブログを見ていないので、両親に漏れ聞こえることはないだろう。
叔父は、父の兄弟姉妹の中で唯一、キリストの福音を長年受け容れてこなかった。この間、うちの父や他の兄弟姉妹は、ことあるごとに叔父に福音を語ってきた。しかしいつも、「キリスト教の話はもう結構」などと拒絶し続けてきたし、いつも最後にはちょっとした言い合いになってしまっていた。それでも、父や兄弟姉妹は、たゆまず祈り続けてきたのである。きっと、神はその長年の祈りを聞き入れて下さったのである。私たち家族の長年の祈りが聞き入れられたと思うと、本当に涙がでるくらい嬉しかった。
今回の叔父のことを通して、あらためて思わされたことは、家族の救いのために、福音の証を恐れずに語っていくことの大切さである。また、家族の救いのために祈り続けるということである。これは、時間を要し、辛抱強く語り続ける気力を持続しなければならないが、神は、その祈りを必ず聞き入れてくださるという信仰を確信した。
「家族に福音を伝える」ということは、ノンクリスチャンの家族に福音を伝えるということばかりではない。クリスチャンとなった家族でも、キリストから離れ、教会へ行かなくなった者がいるかも知れない。私たちは、その者が、神の前に立ち返り、ぶどうの木であるキリストの枝となり、しっかりとキリストにつながり、豊かな実を結ぶクリスチャンになることを、祈り求めなければならないのである。
本当のことを言うと、かつて、キリストから離れ、教会へ行かなくなったのは、私のことである。その中で、家族の陰でのたゆまない祈りがあったのである。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしがその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 (ヨハネによる福音書15:4-5).