12月28日主日礼拝
『クリスマスを祝ってから』(救い主が来られる③)
マタイ2:1-12
3 だれでもイエスキリストに従って生きることができる
博士たちは、イエスキリストの誕生を祝い礼拝するために、東方から遠路はるばるユダヤの国にやって来た。マギと呼ばれる博士たちは、もともとはメディア王国の6部族の一つ(マゴイ族)であった。しかし、メディア王国がペルシャ帝国に滅ぼされた後も、彼らは、ペルシャ人を追放しメディアの国力を回復しようと試みたが、その試みは失敗し、以来、権力や勢力を得ようとする野心を捨て、ペルシャ人と同化し、ペルシャ帝国において祭司職に就いていた。彼らは、ユダヤの人々からみると異邦人ということになる。
博士たちは、飼葉桶に寝かされていたイエスキリストを見てひれ伏して拝み、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それは、異邦人である彼らが、神の愛を知ったことによる喜びと感謝の意の表れであり、神を礼拝する姿なのである。そして、彼らは異邦人の国へ帰り、遠く離れていたとしても、イエスキリストに従う新らしい人生を歩み始めるのである。
“それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。”マタイ2:12
「信仰生活」という言葉がよく使われるが、家庭における「家庭生活」、あるいは、社会における「社会生活」などとあるように、信仰における「信仰生活」が別途存在するということではない。「信仰生活」とは、私たちのすべての生活そのものが信仰生活なのであり、「家庭生活」や「社会生活」とは切っても切り離すことのできないものである。
博士たちも、救い主に出逢ったことにより、もはやこの世の権力のもとで生きるのではなく、イエスキリストに従って生きることになる。それは、これまでの歩みと全く別の道である。だれでもイエスキリストに従って生きることができるということなのである。
“イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。”ルカ 9:23-25
-完-
12月28日主日礼拝
『クリスマスを祝ってから』(救い主が来られる③)
マタイ2:1-12
2 だれでもイエスキリストを礼拝することができる
“彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。”マタイ2:9-11
ここの場面では、ポイントとなる三つの動詞が出てくる。
① 星を見て喜んだ
② 幼子を見てひれ伏して拝んだ
③ 宝の箱をあけて、贈り物をささげた
博士たちは、東方で星のお告げを受け、星に先導され、ついに、救い主のもとに到達する。博士たちの長旅の行程は、犠牲を払い、リスクの伴うものであった。だから、博士たちが救い主に出逢った喜びと感謝は格別のものだったであろう。しかし、単に救い主に出逢った喜びだけではなく、星のお告げで救い主の誕生を知り、星に導かれ、救い主に出逢うまでの行程をも喜んでいると聖書は記している。主に触れることのできた喜び、何かを得たという喜びもあったであろうが、それだけではなく、旅路をとおして救い主のもとに導かれた恵みを喜んでいるのである。博士たちが出逢った救い主は、飼葉桶に寝かされていた。聖画に描かれるような後光が指しているわけでもなかったであろう。こんなみどり児を見るために遠路はるばるここまでやってきたのではないと、通常ならば落胆するところである。しかし、博士たちは、その場にひれ伏し救い主を礼拝したのである。
博士たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。黄金は、君王のかぶる冠であり、王位の象徴である。「黄金」をイエスにささげたことは、イエスが「諸王の王」であることをあらわしている。乳香は、神に礼拝を捧げるときに、薫香として用いられたものである。イエスキリストにを礼拝する姿勢のあらわれである。没薬は、イエスキリストが十字架上で息を引き取ったとき、没薬をからだに塗られたとあるので、本来 死者のからだが腐らないようにするための一種の防腐剤のようなものである。イエスキリストが私たちの罪を負い、「神の子」として死ぬためにこの世に生まれ、やがて復活することをも意味する。そして、朽ちることのない永遠のいのちを私たちは授かったのである。
-つづく-
『クリスマスを祝ってから』(救い主が来られる③)
マタイ2:1-12
2 だれでもイエスキリストを礼拝することができる
“彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。”マタイ2:9-11
ここの場面では、ポイントとなる三つの動詞が出てくる。
① 星を見て喜んだ
② 幼子を見てひれ伏して拝んだ
③ 宝の箱をあけて、贈り物をささげた
博士たちは、東方で星のお告げを受け、星に先導され、ついに、救い主のもとに到達する。博士たちの長旅の行程は、犠牲を払い、リスクの伴うものであった。だから、博士たちが救い主に出逢った喜びと感謝は格別のものだったであろう。しかし、単に救い主に出逢った喜びだけではなく、星のお告げで救い主の誕生を知り、星に導かれ、救い主に出逢うまでの行程をも喜んでいると聖書は記している。主に触れることのできた喜び、何かを得たという喜びもあったであろうが、それだけではなく、旅路をとおして救い主のもとに導かれた恵みを喜んでいるのである。博士たちが出逢った救い主は、飼葉桶に寝かされていた。聖画に描かれるような後光が指しているわけでもなかったであろう。こんなみどり児を見るために遠路はるばるここまでやってきたのではないと、通常ならば落胆するところである。しかし、博士たちは、その場にひれ伏し救い主を礼拝したのである。
博士たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。黄金は、君王のかぶる冠であり、王位の象徴である。「黄金」をイエスにささげたことは、イエスが「諸王の王」であることをあらわしている。乳香は、神に礼拝を捧げるときに、薫香として用いられたものである。イエスキリストにを礼拝する姿勢のあらわれである。没薬は、イエスキリストが十字架上で息を引き取ったとき、没薬をからだに塗られたとあるので、本来 死者のからだが腐らないようにするための一種の防腐剤のようなものである。イエスキリストが私たちの罪を負い、「神の子」として死ぬためにこの世に生まれ、やがて復活することをも意味する。そして、朽ちることのない永遠のいのちを私たちは授かったのである。
-つづく-
12月28日主日礼拝
『クリスマスを祝ってから』(救い主が来られる③)
マタイ2:1-12
1 だれでもイエスキリストを求め、知ることができる
ベツレヘムにユダヤの王が誕生したというお告げを察知して、博士たちは、その誕生を祝うために東から遠路はるばるやって来た。「博士」と訳されるマギ(Magi)はギリシア語マゴス(Magos)に由来するマグス(Magus)の複数形であり、英語のマジック(magic)の語源である。マギという言葉は、占い師、魔術師、奇術師など、あまり高潔な意味で用いられないが、星の運行によって種々の現象を予言する占星術師や天文学者とも言われている。聖書では「博士」たちと訳されている。
「東方」というのは、イスラエルからの東ということなので、具体的にはメソポタミヤ地方のことを指すと思われるが、当時の人たちは占星術を信じ、星の運行によって未来を占えると思い、常に天体を観測していた。星の運行は一定しているが、突然明るい星が出現したり、天体の秩序が乱れると、彼らは何か特別なことが起こる予兆ではないかと思い、それを神の告示と受け止めていたのである。彼らも天体の異変を感じ、王の誕生を信じて疑わなかった。そして彼らが見た星に導かれて、東方から遠い道のりを旅し、エルサレムを経由してベツレヘムにやって来たのである。
博士たちは、星の運行によって王の誕生を知り、救い主の誕生を求めて、イエスキリストのもとにやって来た。私たちは、博士たちのように天体の異変を分析し、イエスキリストを知り、求めることはできないが、聖書によって、イエスキリストを知り、求めることができる。異邦人であっても、イエスキリストの恵みに預かることができるのである。
-つづく-
『クリスマスを祝ってから』(救い主が来られる③)
マタイ2:1-12
1 だれでもイエスキリストを求め、知ることができる
ベツレヘムにユダヤの王が誕生したというお告げを察知して、博士たちは、その誕生を祝うために東から遠路はるばるやって来た。「博士」と訳されるマギ(Magi)はギリシア語マゴス(Magos)に由来するマグス(Magus)の複数形であり、英語のマジック(magic)の語源である。マギという言葉は、占い師、魔術師、奇術師など、あまり高潔な意味で用いられないが、星の運行によって種々の現象を予言する占星術師や天文学者とも言われている。聖書では「博士」たちと訳されている。
「東方」というのは、イスラエルからの東ということなので、具体的にはメソポタミヤ地方のことを指すと思われるが、当時の人たちは占星術を信じ、星の運行によって未来を占えると思い、常に天体を観測していた。星の運行は一定しているが、突然明るい星が出現したり、天体の秩序が乱れると、彼らは何か特別なことが起こる予兆ではないかと思い、それを神の告示と受け止めていたのである。彼らも天体の異変を感じ、王の誕生を信じて疑わなかった。そして彼らが見た星に導かれて、東方から遠い道のりを旅し、エルサレムを経由してベツレヘムにやって来たのである。
博士たちは、星の運行によって王の誕生を知り、救い主の誕生を求めて、イエスキリストのもとにやって来た。私たちは、博士たちのように天体の異変を分析し、イエスキリストを知り、求めることはできないが、聖書によって、イエスキリストを知り、求めることができる。異邦人であっても、イエスキリストの恵みに預かることができるのである。
-つづく-
12月28日主日礼拝
『クリスマスを祝ってから』(救い主が来られる③)
マタイ2:1-12
太陽暦は、世界各国で使用されている暦であるが、日本では明治5年(1872年)に採用され、翌年の明治6年1月1日をその暦の始まりとした。各国で使用されている太陽暦であるが、教会歴においては、同じ太陽暦を採用していても、その起点が違う。西方教会においては、伝統的にその一年が待降節(アドベント)から始まり、「王であるキリスト」の祝いを中心にその暦の周期がある。待降節、降誕節、四旬節、復活節など、イエスキリストに因んだ暦がそれらである。日本では1月1日を始まりとしているので、12月25日を過ぎてクリスマスのメッセージとは少し違和感があったが、教会歴の始まりがアドベントを起点としているところもあるので、この季節にクリスマスの説教をするのは、別に当たり前のことである。
マタイ書によれば、イエスキリストの誕生を祝福するために、東方の博士たちやベツレヘムの郊外の羊飼いたちだけが、ベツレヘムで生まれたイエスキリストの招きに応答している。天に輝く「星」に導びかれた東方の博士たちと、主の御使いによって主の誕生を告げ知らされてた羊飼いたちである。この二種類の人々には共通する点がある。
羊飼いは平和のシンボルであり、やさしさの表れであるとされているが、当時のユダヤの国の羊飼いというのは、過酷な仕事であったこととともに、社会の底辺にいる者たちが従事する卑しい仕事とされていた。その主な理由は、羊飼いの仕事の性格上、羊の群れを絶えず見張っていなければならなかったため、安息日を守ることができず、また、彼らは手を洗うこともままならず、その他細々とした律法や規則を遵守することができなかったことから、軽蔑され差別の対象となっていたのである。つまり、当時の社会では、神から遠い存在とされていたのである。羊飼いたちは、ユダヤ人でありながら、ベツレヘムの郊外にいながら、人々が住民登録で本籍地に帰郷しているときでさえも、彼らは自分の持ち場を離れることが許されなかったのである。すなわち、羊飼いたちは、質的にも立場的にも、神から遠い存在だったのである。そのように軽蔑されていた羊飼いたちのところに、星のように出来事を象徴的に伝えるだけではなく、御使いによって、主の誕生の知らせが届けられたのである。それも、主の御使いによって、具体的なメッセージが届けられたのである。
一方、東方の博士たちは、物理的だけではなく、神から遠いところに居た者たちである。東方の博士たちとは、ペルシャ帝国の一地方に住む、異邦人の天文学者らのことである。「博士」と訳されるマギ(Magi)はギリシア語マゴス(Magos)に由来するマグス(Magus)の複数形であり、星の運行によって種々の現象を予言する占星術師とも言われている。
社会的な弱者であった羊飼い、異邦人であった東方の博士たち、彼らは、救い主イエスキリストと出逢い、新らしい人生の旅路を歩むことになるのである。
-つづく-
『クリスマスを祝ってから』(救い主が来られる③)
マタイ2:1-12
太陽暦は、世界各国で使用されている暦であるが、日本では明治5年(1872年)に採用され、翌年の明治6年1月1日をその暦の始まりとした。各国で使用されている太陽暦であるが、教会歴においては、同じ太陽暦を採用していても、その起点が違う。西方教会においては、伝統的にその一年が待降節(アドベント)から始まり、「王であるキリスト」の祝いを中心にその暦の周期がある。待降節、降誕節、四旬節、復活節など、イエスキリストに因んだ暦がそれらである。日本では1月1日を始まりとしているので、12月25日を過ぎてクリスマスのメッセージとは少し違和感があったが、教会歴の始まりがアドベントを起点としているところもあるので、この季節にクリスマスの説教をするのは、別に当たり前のことである。
マタイ書によれば、イエスキリストの誕生を祝福するために、東方の博士たちやベツレヘムの郊外の羊飼いたちだけが、ベツレヘムで生まれたイエスキリストの招きに応答している。天に輝く「星」に導びかれた東方の博士たちと、主の御使いによって主の誕生を告げ知らされてた羊飼いたちである。この二種類の人々には共通する点がある。
羊飼いは平和のシンボルであり、やさしさの表れであるとされているが、当時のユダヤの国の羊飼いというのは、過酷な仕事であったこととともに、社会の底辺にいる者たちが従事する卑しい仕事とされていた。その主な理由は、羊飼いの仕事の性格上、羊の群れを絶えず見張っていなければならなかったため、安息日を守ることができず、また、彼らは手を洗うこともままならず、その他細々とした律法や規則を遵守することができなかったことから、軽蔑され差別の対象となっていたのである。つまり、当時の社会では、神から遠い存在とされていたのである。羊飼いたちは、ユダヤ人でありながら、ベツレヘムの郊外にいながら、人々が住民登録で本籍地に帰郷しているときでさえも、彼らは自分の持ち場を離れることが許されなかったのである。すなわち、羊飼いたちは、質的にも立場的にも、神から遠い存在だったのである。そのように軽蔑されていた羊飼いたちのところに、星のように出来事を象徴的に伝えるだけではなく、御使いによって、主の誕生の知らせが届けられたのである。それも、主の御使いによって、具体的なメッセージが届けられたのである。
一方、東方の博士たちは、物理的だけではなく、神から遠いところに居た者たちである。東方の博士たちとは、ペルシャ帝国の一地方に住む、異邦人の天文学者らのことである。「博士」と訳されるマギ(Magi)はギリシア語マゴス(Magos)に由来するマグス(Magus)の複数形であり、星の運行によって種々の現象を予言する占星術師とも言われている。
社会的な弱者であった羊飼い、異邦人であった東方の博士たち、彼らは、救い主イエスキリストと出逢い、新らしい人生の旅路を歩むことになるのである。
-つづく-
12月14日主日礼拝
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
3 小さな者の中に
“宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。” ルカ2:7
イエスキリストは、救い主として、この地上に来られたのにもかかわらず、誰にも受け入れられないで、家畜小屋の片隅で生まれられた。だからこそイエスキリストは、その寂しさや悲しみ、痛みを知ってくださっている。宿屋に居場所がなかったというのは、物理的なスペースがなかったということではない。それは人間的な発想である。私たちは、この7節の御言葉の本質を読み取らなければならない。すなわち、イエスキリストは、最初から最後まで居場所のない者として、その生涯を送られたのである。
イエスキリストは、「きつねには穴があり、空の鳥にはねぐらがある.しかし、1人の子には枕するところもなかった。」と語った。イエスキリストに従う弟子たちも、「私たちは旅人であり、寄留者である。」と告白している。つまり、私たちの国籍は天にあり、この地上においては、本来、居場所などないということである。神の遠大なご計画の中で、イエスキリストが低い姿でこの地上に来られたというのは、そういうことなのである。私たちは、居場所がないほどへりくだった姿で、イエスキリストを迎えることが許されているのである。
ヨハネも同じ福音の中で、イエスキリストのご降誕の記事を、次のように記している。
“この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。” ヨハネ 1:11-
すわなち、イエスキリストを信じ、神の子どもとして特権が与えられるということは、この地上において栄えることではない。神の遠大なご計画の中で生きるということなのである。そして、イエスキリストように小さな者として生きていくということである。
イエスキリストの生涯を覚えながら、アドベントの最後の一週間を過ごしたいと、切に思うものである。
-完-
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
3 小さな者の中に
“宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。” ルカ2:7
イエスキリストは、救い主として、この地上に来られたのにもかかわらず、誰にも受け入れられないで、家畜小屋の片隅で生まれられた。だからこそイエスキリストは、その寂しさや悲しみ、痛みを知ってくださっている。宿屋に居場所がなかったというのは、物理的なスペースがなかったということではない。それは人間的な発想である。私たちは、この7節の御言葉の本質を読み取らなければならない。すなわち、イエスキリストは、最初から最後まで居場所のない者として、その生涯を送られたのである。
イエスキリストは、「きつねには穴があり、空の鳥にはねぐらがある.しかし、1人の子には枕するところもなかった。」と語った。イエスキリストに従う弟子たちも、「私たちは旅人であり、寄留者である。」と告白している。つまり、私たちの国籍は天にあり、この地上においては、本来、居場所などないということである。神の遠大なご計画の中で、イエスキリストが低い姿でこの地上に来られたというのは、そういうことなのである。私たちは、居場所がないほどへりくだった姿で、イエスキリストを迎えることが許されているのである。
ヨハネも同じ福音の中で、イエスキリストのご降誕の記事を、次のように記している。
“この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。” ヨハネ 1:11-
すわなち、イエスキリストを信じ、神の子どもとして特権が与えられるということは、この地上において栄えることではない。神の遠大なご計画の中で生きるということなのである。そして、イエスキリストように小さな者として生きていくということである。
イエスキリストの生涯を覚えながら、アドベントの最後の一週間を過ごしたいと、切に思うものである。
-完-
12月14日主日礼拝
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
イエスキリストは来られました
2 低い姿となって
イエスキリストは、ベツレヘムという小さな町で生まれられた。ベツレヘムは、ダビデの出身地で、彼が油を注がれた場所ということで、ダビデの町とも呼ばれている。
皇帝アウグストによる住民登録の命令によって、ヨセフは、身重のマリアを連れての長旅を余儀なくされた。二人にとっての長旅は、困難のなにものでもなかったが、ここにも神の遠大な計画が潜在している。預言者ミカの預言のとおり、この小さな山里で、イエスキリストがお生まれになったのである。
“ベツレヘム・エフラテ*よ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。” ミカ5:2 *エフラテとはベツレヘムの古称
イエスキリストは、低い姿となってベツレヘムでお生まれになった。個人的な名声は、むなしい栄光を望むものであると、パウロは次のとおりに語っている。
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間ではそのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。” ピリピ2:3-
-つづく-
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
イエスキリストは来られました
2 低い姿となって
イエスキリストは、ベツレヘムという小さな町で生まれられた。ベツレヘムは、ダビデの出身地で、彼が油を注がれた場所ということで、ダビデの町とも呼ばれている。
皇帝アウグストによる住民登録の命令によって、ヨセフは、身重のマリアを連れての長旅を余儀なくされた。二人にとっての長旅は、困難のなにものでもなかったが、ここにも神の遠大な計画が潜在している。預言者ミカの預言のとおり、この小さな山里で、イエスキリストがお生まれになったのである。
“ベツレヘム・エフラテ*よ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。” ミカ5:2 *エフラテとはベツレヘムの古称
イエスキリストは、低い姿となってベツレヘムでお生まれになった。個人的な名声は、むなしい栄光を望むものであると、パウロは次のとおりに語っている。
“何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間ではそのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。” ピリピ2:3-
-つづく-
12月14日主日礼拝
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
イエスキリストは来られました
1 大きな歴史の中で
救い主の誕生は、アダムとエバが罪を犯した直後から神の計画の中にあった。神の前に罪を犯したアダムとエバは、もはやエデンの園にいられなくなり、エデンの園から追放されることになる。しかし神は、アダムとエバのために皮の衣をつくり、彼らにお着せになった。神がお与えになったこの皮の衣は、動物の皮でできた衣である。すなわち、アダムとエバのために用意された衣は動物の血が流された結果のものということである。それは人類が始まって以来の、最初の流された血である。この血は、そののちキリストによって私たちのために流された犠牲の血潮の予象であり、この衣は、キリストによって信仰者に着せられる「救いの衣」なのである。神がアブラハムを選び、イスラエルの民を起したことも、神の計画を実現するための一つ一つの手順である。クリスマスは、私たちの救いのための序章に過ぎない。大きな歴史の中で、神の約束は必ず成就されるのである。
-つづく-
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
イエスキリストは来られました
1 大きな歴史の中で
救い主の誕生は、アダムとエバが罪を犯した直後から神の計画の中にあった。神の前に罪を犯したアダムとエバは、もはやエデンの園にいられなくなり、エデンの園から追放されることになる。しかし神は、アダムとエバのために皮の衣をつくり、彼らにお着せになった。神がお与えになったこの皮の衣は、動物の皮でできた衣である。すなわち、アダムとエバのために用意された衣は動物の血が流された結果のものということである。それは人類が始まって以来の、最初の流された血である。この血は、そののちキリストによって私たちのために流された犠牲の血潮の予象であり、この衣は、キリストによって信仰者に着せられる「救いの衣」なのである。神がアブラハムを選び、イスラエルの民を起したことも、神の計画を実現するための一つ一つの手順である。クリスマスは、私たちの救いのための序章に過ぎない。大きな歴史の中で、神の約束は必ず成就されるのである。
-つづく-
12月14日主日礼拝
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
本日はアドベント第3週目である。
主イエス・キリストの降誕について、救い主は、ベツレヘムで生まれ、布にくるまれ飼い葉桶に寝かせられていた。「飼い葉桶」の中に寝かされているみどりごは救い主のしるしであると聖書は語っている。
イエスは、イスラエル北部、ガリラヤ地方のナザレという小さな町の出身であり、ナザレ人イエスと呼ばれていたことは有名である。しかし、出生地はナザレではなく、ベツレヘムというこれまた小さな町であった。ベツレヘムという町は族長ヤコブ時代から存在した町であり、ヤコブの妻ラケルもベツレヘムの付近で埋葬されたと言われている。またダビデの出身地でもあり、ダビデが油を注がれた町であることから、ダビデの町とも言われている。旧約時代ではメシヤがベツレヘムで誕生すると預言されており、新約聖書のこのところでも、降誕前夜の羊飼いたちは、救い主がダビデの町でお生まれになるというお告げを受けている。
当時、初代ローマ皇帝アウグストは、民に住民登録をせよという勅令を出した。住民登録は課税や徴兵目的のために行われたものであり、この命令は本籍地において住民登録をしなければならないというものであった。ナザレとベツレヘムとの間には120キロほどの距離があったが、交通手段の発達していなかったその時代、ヨセフは身重のマリヤを連れて、住民登録するために遠路はるばるナザレからベツレヘムに向かって旅をしてきたのである。そして、その旅の途中でイエスが誕生したのである。
救い主イエス・キリストの誕生は、アダムとエバが罪を犯した直後から神の計画の中にあった。神は、そのためにアブラハムを選び、イスラエルの民をお越し、やがてときが熟し、イエス・キリストはへりくだった姿でお生まれになったのである、神の大きな計画は、小さな町で実現したのである。
-つづく-
『全世界、飼葉桶、そして私』(救い主が来られる③)
ルカ2:1-7
本日はアドベント第3週目である。
主イエス・キリストの降誕について、救い主は、ベツレヘムで生まれ、布にくるまれ飼い葉桶に寝かせられていた。「飼い葉桶」の中に寝かされているみどりごは救い主のしるしであると聖書は語っている。
イエスは、イスラエル北部、ガリラヤ地方のナザレという小さな町の出身であり、ナザレ人イエスと呼ばれていたことは有名である。しかし、出生地はナザレではなく、ベツレヘムというこれまた小さな町であった。ベツレヘムという町は族長ヤコブ時代から存在した町であり、ヤコブの妻ラケルもベツレヘムの付近で埋葬されたと言われている。またダビデの出身地でもあり、ダビデが油を注がれた町であることから、ダビデの町とも言われている。旧約時代ではメシヤがベツレヘムで誕生すると預言されており、新約聖書のこのところでも、降誕前夜の羊飼いたちは、救い主がダビデの町でお生まれになるというお告げを受けている。
当時、初代ローマ皇帝アウグストは、民に住民登録をせよという勅令を出した。住民登録は課税や徴兵目的のために行われたものであり、この命令は本籍地において住民登録をしなければならないというものであった。ナザレとベツレヘムとの間には120キロほどの距離があったが、交通手段の発達していなかったその時代、ヨセフは身重のマリヤを連れて、住民登録するために遠路はるばるナザレからベツレヘムに向かって旅をしてきたのである。そして、その旅の途中でイエスが誕生したのである。
救い主イエス・キリストの誕生は、アダムとエバが罪を犯した直後から神の計画の中にあった。神は、そのためにアブラハムを選び、イスラエルの民をお越し、やがてときが熟し、イエス・キリストはへりくだった姿でお生まれになったのである、神の大きな計画は、小さな町で実現したのである。
-つづく-
11月30日主日礼拝
『預言のみとこばは誰のために』(救い主が来られる①)
3 私たちは預言に生きるものである
“すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。”コリント人第二5:19
イエス・キリストは、神に対する罪の責めを私たちに負わせるのではなく、主ご自身がその責めを果たされた。そのおかげで、私たちは、神との間で和解することができたのである。神は、預言者に御言葉を語らせたように、私たちにもその御言葉が委ねられている。
イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、私たちは罪贖われた。このことによって、私たちは、神との間で和解し、正しい関係を回復すことができたのである。
クリスマスは、イエス・キリストのご降誕を祝うときであるとともに、イエス・キリストこそが救い主であることを再確認する恵みのときである。私たちは、この喜ばしい知らせを祝い、一人でも多くの方々その喜びに触れることができるようにと願うものである。喜ばしい知らせを人々に語ることは、私たちの使命である。だからこそ神は、イエス・キリストを信じる私たちに御言葉を委ねられている。私たちは、その御言葉に生きる者とならなければならない。
-完-
『預言のみとこばは誰のために』(救い主が来られる①)
3 私たちは預言に生きるものである
“すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。”コリント人第二5:19
イエス・キリストは、神に対する罪の責めを私たちに負わせるのではなく、主ご自身がその責めを果たされた。そのおかげで、私たちは、神との間で和解することができたのである。神は、預言者に御言葉を語らせたように、私たちにもその御言葉が委ねられている。
イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、私たちは罪贖われた。このことによって、私たちは、神との間で和解し、正しい関係を回復すことができたのである。
クリスマスは、イエス・キリストのご降誕を祝うときであるとともに、イエス・キリストこそが救い主であることを再確認する恵みのときである。私たちは、この喜ばしい知らせを祝い、一人でも多くの方々その喜びに触れることができるようにと願うものである。喜ばしい知らせを人々に語ることは、私たちの使命である。だからこそ神は、イエス・キリストを信じる私たちに御言葉を委ねられている。私たちは、その御言葉に生きる者とならなければならない。
-完-
11月30日主日礼拝
『預言のみとこばは誰のために』(救い主が来られる①)
2 預言は神の約束である
神と私たちとの契約は、神の真実性によって、忠実に成就される。神の預言によって示された多くの約束が成就するのである。私たちは、弱くても、小さくても、罪深くても、神の備えられた時宜があるかも知れないが、必ずその約束に預かることができるのである。
“「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。”イザヤ書59:21
“この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。”マタイ24:35
この世界は、神のみ心によって成り立っている。私たちは、創造されたこの世界を管理されるように神に委ねられた。神は、私たちを用いて、ご自身の計画を進めておられるのである。神は、私たちを支配するのではなく、私たちに自由意思を与え、神を愛し、その愛を持って使えることようにと望んでおられる。全能の神が、聖書で預言された数々の約束を次々と実現してくださっていることは、私たちにとって何と感謝なことだろうか。
神の約束の一つは、みどり子の生まれるという約束である。マリヤは、天使によって受胎の告知を受けたあと、親類関係にあったエリザベツの家を訪ねるが、そのときにエリザベツはマリヤに祝福のことばを語るのである。
“私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」”ルカ1:43-45
そしてマリヤは応えた。
“「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。” ルカ1:46-48
エリザベスとマリヤの姿を見ると、私たちも、神の約束を信じることができる。神がいやしいはしため(マリヤ)に目を留めてくださったように、私たちにも目を留めてくださっているのだから、私たちのたましいも主をあがめ、救い主なる神を喜びたたえることができるのである。
聖書には、神の約束のみことばが満ち溢れている。私たちは、その一つ一つを心から信じ、聖書の約束のすべてが成就するときを待ち望みたい。聖書のことばこそ、主ご自身を知ることのできる大きな恵みである。
-つづく-
『預言のみとこばは誰のために』(救い主が来られる①)
2 預言は神の約束である
神と私たちとの契約は、神の真実性によって、忠実に成就される。神の預言によって示された多くの約束が成就するのである。私たちは、弱くても、小さくても、罪深くても、神の備えられた時宜があるかも知れないが、必ずその約束に預かることができるのである。
“「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と主は仰せられる。”イザヤ書59:21
“この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。”マタイ24:35
この世界は、神のみ心によって成り立っている。私たちは、創造されたこの世界を管理されるように神に委ねられた。神は、私たちを用いて、ご自身の計画を進めておられるのである。神は、私たちを支配するのではなく、私たちに自由意思を与え、神を愛し、その愛を持って使えることようにと望んでおられる。全能の神が、聖書で預言された数々の約束を次々と実現してくださっていることは、私たちにとって何と感謝なことだろうか。
神の約束の一つは、みどり子の生まれるという約束である。マリヤは、天使によって受胎の告知を受けたあと、親類関係にあったエリザベツの家を訪ねるが、そのときにエリザベツはマリヤに祝福のことばを語るのである。
“私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」”ルカ1:43-45
そしてマリヤは応えた。
“「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。” ルカ1:46-48
エリザベスとマリヤの姿を見ると、私たちも、神の約束を信じることができる。神がいやしいはしため(マリヤ)に目を留めてくださったように、私たちにも目を留めてくださっているのだから、私たちのたましいも主をあがめ、救い主なる神を喜びたたえることができるのである。
聖書には、神の約束のみことばが満ち溢れている。私たちは、その一つ一つを心から信じ、聖書の約束のすべてが成就するときを待ち望みたい。聖書のことばこそ、主ご自身を知ることのできる大きな恵みである。
-つづく-
11月30日主日礼拝
『預言のみとこばは誰のために』(救い主が来られる①)
1 聖書の預言は祝福であり警告である
ミカは、BC742-686頃にかけて活躍した南ユダ王国の預言者である。この時代、イスラエル王国はすでにアッシリアによって滅ぼされ、その民は離散していた。ミカは、離散していた民がイスラエルへ帰還するように預言し、新しいイスラエルの指導者がベツレヘムから生まれることを預言するのである。
ミカは預言の中で、民の神に対する信仰の在り方を警告した。すなわち、民が神に背き、離れていることがどんなに神を悲しませることか、その罪を指摘し、神がどれほど民を愛しているのかを告げるとともに、神の祝福の約束を気づかせようとしたのである。
神の眼差しは民から離れることはない。神は、私たちがたとえ夢も希望も生きがいもない状況におかれたとしても、私たちが主を見上げ、主とともに歩むことを望んでおられる。ミカが神のみことばに目を向けるように預言しているのは、私たちに約束された神の祝福を受けるためなのである。
ミカは、そのことを民に知らしめるために、神のみことばを語るように委ねられたのである。その預言は、私たちにも語られている神のことばであり、神の祝福に預かるための警告なのである。
-つづく-
『預言のみとこばは誰のために』(救い主が来られる①)
1 聖書の預言は祝福であり警告である
ミカは、BC742-686頃にかけて活躍した南ユダ王国の預言者である。この時代、イスラエル王国はすでにアッシリアによって滅ぼされ、その民は離散していた。ミカは、離散していた民がイスラエルへ帰還するように預言し、新しいイスラエルの指導者がベツレヘムから生まれることを預言するのである。
ミカは預言の中で、民の神に対する信仰の在り方を警告した。すなわち、民が神に背き、離れていることがどんなに神を悲しませることか、その罪を指摘し、神がどれほど民を愛しているのかを告げるとともに、神の祝福の約束を気づかせようとしたのである。
神の眼差しは民から離れることはない。神は、私たちがたとえ夢も希望も生きがいもない状況におかれたとしても、私たちが主を見上げ、主とともに歩むことを望んでおられる。ミカが神のみことばに目を向けるように預言しているのは、私たちに約束された神の祝福を受けるためなのである。
ミカは、そのことを民に知らしめるために、神のみことばを語るように委ねられたのである。その預言は、私たちにも語られている神のことばであり、神の祝福に預かるための警告なのである。
-つづく-