(三)試練の中での喜び(1:6-12)
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(6-8)
6節の冒頭、ペテロは、“そういうわけで”と、前文を受けて議論を展開しようとしているが、“そういうわけで”とは、どういうわけなのか。
前文には、以下の記述がある。
・生ける望みを持つようにしてくださいました。(3)
・資産を受け継ぐようにしてくださいました。(4)
・用意されている救いをいただくのです。(5)
新約聖書では、マタイの福音書から黙示録までを通して、25節に1回の割合で、イエス・キリストの“再臨”を表す言葉が記されている。ペテロ第一の手紙の1章を見ても、
・終わりのときに表されるように(5)
・イエス・キリストの現れのとき(7)
・イエス・キリストの現れのとき(13)
と一つの章に3回も“再臨”を表す言葉が使われ、“再臨”を強調している。
私たちは、“終わりのとき”がいつ到来し、そのときにどのようなことが起こるかは知らされていない。ただ、聖書のいう“終わりのとき”とは、成熟して、完成するときのことである。私たちの生きているこの世界では、その背後で神の贖いのわざが着々と成熟し、完成に向かっている。だから、信仰の目をもって、この世界の背後で起こっている現象をしっかりと見据えなければならない。救いのわざの完成するときが一刻一刻と近づいているからである。
キリストの“再臨”については、聖書で明言されているが、“再臨”は、“パルーシア”、“アポカリュプシス”、“エピファネイヤ”などといった言葉で表現されている。“パルーシア”は、ローマ皇帝などの貴い人が、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの一都市コリントやピリピへ訪問するなどといったときに用いられている言葉である。“アポカリュプシス”は、覆われているもんが取り除かれて、突然現れるという意味で使われている。“エピファネイヤ”はキリスト(救い主)が現れるという意味で使われている。
つまり、何を言いたいかというと、神が啓示・黙示された救いのわざは、約束どおり完成されようとしており、イエス・キリストの再臨が近づいている。そういうわけだから、今は、さまさまな苦難や迫害を経験し、試練の中にいるかも知れないが、やがて、称賛されるべき栄光と栄誉のときが来るから、大いに喜びなさいと、ペテロはここで語っているのである。
-つづく-
ペテロの手紙第一の学び -3-