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Summary(13/12/01)

12月01日主日礼拝

『約束』(救い主を待ち望む①)
イザヤ書9章1-7節

待降節を迎えて一本目のろうそくに火が灯された。イエス・キリストの誕生までの4週間を「待降節」という。「待降節」は、イエス・キリストの降誕を待ち望み、お祝いの準備をする期間である。今朝は、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったひとりのみどり子がどのようなお方だったのかに注目したい。

“ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”イザヤ/ 9:6

イスラエルの南北分裂の歴史からイザヤの預言をこれまで学んできたが、イザヤはどのような状況の中でこのみことばを語ったのだろうか。イザヤは、イスラエル王国(北王国)がアッシリアによって滅ぼされようとしていた頃のユダ王国(南王国)の預言者である。南王国は、北王国の民が捕囚となってから150年間生き長らえることになるが、南王国が新バビロニアに滅ぼされるまで、たえず列強に脅かされ、存亡の機にあった。イザヤは、そんな状況の中でこのみことばを語ったのである。

“しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。”イザヤ/ 9:1-2

とあるが、北王国はまさに、民は闇の中を歩んでいた。ゼブルン族とナフタリ族は古代イスラエルの12氏族の一部族であり、イスラエル王国の分裂後北イスラエル王国に属していたが、アッシリアによって強制的に移住させられ、滅びの中を歩んでいたのである。

イザヤは、アッシリアが南王国に今にも攻め込もうとしている中で、神に委ねられたみことばを語った。イザヤは、700年後に救い主が誕生するということだけではなく、さらにその向こうにある神の国の実現を視野に入れて、この預言を語っている。みどり子の誕生とともに、やがてイエス・キリストによって実現される神の国を待ち望むときが待降節であり、みどり子の姿はその象徴なのである。

“みどり子/赤ちゃん”としての救い主の姿に注目したい。

1 神は私たちに対して真実である

9章6節のイザヤの預言は、これから実現することが未来に必ず成就するものとして未来完了形で語っている。南王国がこれから滅ぼされ、捕らえられようとしている苦難の状況の中で、700年後に救い主がお生まれになるとイザヤは語っているのである。つまり、信仰とは、未来完了の思考なのである。設計者が完成図を頭の中でイメージしているように、神は、設計者としての世界の完成図のイメージがある。信仰とは、完成を見て信じるのではなく、神の計画をイメージする完成図を受け入れることである。だから私たちは、苦難の中にあったとしても、感謝があり、喜びがあるのである。まだ実現していない神の約束を受け入れること、これが未来完了形の思考である。

“このすべての出来事は、主の預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)”マタイ/ 1:22-

私たちは、神の約束によって、将来に実現することをすでに成就したものとして信じて受け入れるのである。私たちの人生は、神の約束が将来において必ず実現することを信じる人生なのである。


2 神は私たちの恐れをとりのぞく

みどり子が救い主としてお生まれになるという預言は、当時の南王国の苦難の状況下において、一体なんの慰めになったのだろうのか。民は、アッシリアや新バビロニアに脅かされている中で、恐怖を取り除いてくれる者を待望していたのかも知れない。しかし、みどり子は恐れのない存在であり、恐れを与えない存在である。ユダヤに救い主がみどり子として生まれたからこそ、羊飼いも救い主のもとに行くことができたのであろう。この時代は、力と力がぶつかり、脅したり脅されたり、軍事力や経済力によって他国を支配する時代であったが、救い主は、無力なみどり子として来られたのであり、私たちに恐れを取り除く存在だったのである。

“キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。”ピリピ/ 2:6-8

このみことばは、初代教会時代の賛美歌であるが、イエス・キリストの生まれた姿を賛美したものである。イエス・キリストの人生は、王の王であるにもかかわらず、人に仕えた人生だったのである。


3 神は私たちを無条件で愛される

みどり子は、神からのすばらしい贈り物である。救いは、信仰の強さや能力など、わたちたちの側の力によって与えられたものでは決してなく、神の一方的な恵によって与えられたものである。この贈り物によって、私たちは罪から救われるだけではなく、私たちの必要をすべて満たしてくださると保証されているのである。

“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”ローマ/ 8:32

私たちは、神の恵を受けるに相応しくなかったにもかかわらず、一方的な神の愛によって、代価を支払うことなくその恵を授かった。そして、神の愛によって、圧倒的な勝利者として、生きる者とされたのである。どんなに苦難の中にあり、障壁にぶつかっていたとしても、神は私たちに計画を持っておられる。私たちは、神の約束を受け取って、必ず将来に実現するものと未来完了形思考で信じて生きていくのである。

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Author:ぴいくん
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